ファントム、城を借りる3

 店舗に戻り、まどかは契約書類をテーブルの上に広げた。


「こちらが入居者の方への注意事項です、一通り目を通してましたらこちらにサインを。それから」


 契約するにあたり、様々な注意事項、町内会への入会、ゴミ出しのルールなど、覚えなければならないことが山のようになる、がこれまでやってきたことに比べれば、灰島にすればいとも簡単な任務だ。


「分かりました」


 そう答えると、少しだけまどかの鼻の穴が膨らむ。


「それではこちらが契約書です。こちらに、ご契約者様と、保証人様のお名前、ご住所、お勤め先などを……」


 まどかの声に灰島のペンを持つ手が止まった。


「保証人……?」


 自分でその言葉を繰り返し、しまったと思ってしまったのだ。


「あ、はい。でも、ご家族の方でも会社の同僚の方でも構いません」


 普通にそう回答したのだが、灰島の手が動かずまどかは、ハッとした。


「弊社の規定で、申し訳ありません。あの、よろしければ保証会社をご利用いただくことも可能ですが、どうでしょう?」


 彼は訳ありなお客なのだ、とまどかは理解した。考えてみれば、いきなり部屋を見に来て即決する客は珍しい。さらにはあの防犯へのこだわりようは、何か訳ありに違いない!


 違いないのだが、ここで客を逃がすわけにはいかない。しかも訳ありであれば多少金額がはろうとも、保証会社を選択して契約するはずだ。というまどかの思惑通り、灰島は「それでは保証会社を利用します」と答えた。


「それでは初期費用はこちらに」と、まどかが電卓を叩き提示すれば、灰島は驚くことなく「分かりました」と持っていたカバンを開ける。


「それでは現金で」


「はい!? え? 現金!?」


 驚くまどかに、灰島は不思議そうに首を傾けた。



「それではこちらが鍵となります」


 渡されたのは、聞いていた通りディンプルキー、3本。


 契約は滞りなく終わり、灰島は不動産屋から一歩外に出た。


「この度はありがとうございました。何か分からないことがありましたら、いつでもご相談に乗りますのでいらしてくださいね」


 そんな営業トークに灰島は「そうですねぇ」と言いながら振り返るから、まどかの張り付いた笑顔も強張ってしまう。


「このあたり周辺の監視カメラの配置場所や、反社がいる住所なんかを教えていただける助かります」


「……はい? えと、そう、ですね……、そういったことは役所で聞かれた方が」


 ひきつる笑顔でそれでも答えるまどかに、灰島は「ぷっ」と吹き出して笑うと、「冗談です」と口を覆った手で、前髪を書き上げる。


 瞬間、見えた灰島の顔にまどかが見惚れていると、彼は軽く一礼した。


「ありがとうございました」


 そう言うと、彼は長い足でスタスタと行ってしまった。


「……なんなの、あの人」


 けれど、まどかのつぶやきは灰島に聞こえたかもしれない。



 新居のドアを開け、灰島はがらんとした部屋に足を踏み入れた。


「ふぅ……」


  初めて自分の意志で手に入れた『普通の部屋』


 感慨に浸るのも束の間、彼の思考は既に次のステップへと移行していた。


「カーテンは防炎、完全遮光は必須だがこの程度は市販されているだろう。ニトリか無印良品あたりで探すのが『普通』か。あとは窓か、防弾ガラスを特注するか……」


  買える場所は知っている。が、そうなるとここがバレてしまうのはまずくないか?  匿名で頼めるところを探さなくては。そう考えながらも、目につくのはあの高層マンションだ。


「あのマンションの住人リスト、各部屋の見取り図が必要だな。いや、それよりもこのアパートの住人を調べるほうが先か?」


 その情報を得ようとするなら、まどかのいた店舗のPCに入り込めば入手可能だ。そんなことは彼にとって簡単すぎるミッションなのだが……。


「違うな、まずは挨拶だ、そう、『普通』の住人として、まずは管理人さんに挨拶をして、それとなく情報を集める、これが『普通』だろう」


 灰島平太の『普通の生活』ための努力は、どうやら常人とはかなり異なるアプローチを辿りそうだった。


  彼の新たな「任務」は、始まったばかりである。



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