ファントム、朝食を食べる

 朝、灰島平太に目覚ましは要らない。きっちり5時に目を覚まし、彼は腕時計を確認した。


「やはりベッドはあったほうがいいな」


 別段、体がしんどいとか痛いとか、そういう問題ではなく、玄関のドアを開けて何もない部屋を見られることがあれば、任務の為に借りたのでは? と疑念を抱かれると面倒だからだ。自分ならそう思うからの思考だが、一般人はそんな考えには至らず『引っ越したばかりなんだな』程度だろう。


「やはりPCも欲しいな。そうなるとVPNも契約しないと。しかし一般のVPNで情報漏洩は……」


 そこまで考えて、彼はかぶりを振った。


 もう諜報員ではない。自分がさらす情報もありきたりのもので、国家を揺るがすようなものは持っていない。漏れたとしても「灰島平太」という架空の人物の架空の情報に過ぎない。


 そう考え彼は立ち上がったが、いかんせんまだ朝の5時。24時間スーパーにベッドがあるわけでもなく、勿論PCも売られてはいない。


「……駅前にイネダがあったな」


 確かあそこは朝の6時から営業をしている。それを調べようとスマホを手に取り、彼は顔をしかめた。このスマホは組織から貸与されたもの。今は電源も切っており、追跡される心配も無いはずなのだが……。


「念のため、破棄。やはりこちらも新しいものを用意しよう。まずはモーニングだな」


 そう呟いてラフな服に着替えると自分の城である部屋を出て、きっちり鍵をかけた。そして玄関ドアの前に、細かい砂をパラパラと撒く。


「これでいい」


 念には念を、ということらしい。




 初夏ということで、5時を過ぎればかなり明るい。明るいが、まだイネダは開店していない。


「少し走るか」


 今までもトレーニングをおろそかにしたことはない。これまでのようなストイックな運動は必要ないかもしれないが、健康的な生活を送るためのトレーニングはするべきだ。


 このあたりの地図を頭に思い浮かべ、おおよそ10キロ程度のランニングコースを設定して、彼は走り始めた。


 太陽が上り始め、その眩しさにかけている眼鏡にサングラスのレンズをセットした。走りながら確認するのは、いろんな場所に設置されている監視カメラ、地図にはない小さな脇道、歩く人達。


 太陽が完全に顔を出し、初夏の爽やかな日差しがアスファルトを照らし始める頃、灰島平太はようやくランニングを終えた。10キロという距離は彼にとって準備運動にも満たないが、目的は体力維持だけではない。すれ違うジョギング中の老人や、新聞配達のバイクの音ですら、彼にとっては貴重な情報源だった。


 その中で不審な行動をする人物も、貴重な情報源となる。


 灰島は足を止め、わきにある小さな路地の先を見つめ、わからないくらいの僅かな動作であたりを警戒するとその路地にさっと入り込んだ。


 彼の行動に、歩く速度を少し緩めた人物がいた。けれどすぐさま駆け寄る、なんてことはせず一度スマホを見て、それから辺りを見渡してまた普通に歩き出す。そして、灰島が入り込んだ小さな路地を覗き込んだ。


 この先はどこへ続いているのか。スマホの地図では行き止まりのはずだが、彼の姿はどこにも見えない。男は少し立ち止まり、それからゆっくりとその路地に足を踏みいれた。


 日の当たらないそこは、ひんやりとした空気で、男は思わず喉ぼとけを上下させた。幅は2メートル弱、わきに置かれているのは、店舗のゴミ箱やいらなくなった備品。歩けば、ジャリッと自分の足音が嫌に響く。


 パラ……。


 上から落ちてきた砂に、慌てて上を見上げたが男の視界は一瞬で暗闇となった。両肩に感じる重み、首を固定されこのまま捻られれば──。


「おっ、俺だ! ファントム!! クラブだ!」


 両肩には灰島の膝が、そしてそのまま首をホールドされ、顔には彼が着ていた上着を被せられた状態で、その男は潔く両手を上げた。


 灰島の指は、もう少しでこの男の両目を潰す寸前。


「……もう少しで殺すところだった。気をつけろ、クラブ」


 そう言いながら灰島は、彼の肩から降りて彼の顔にかかっていた上着を取り去った。


「お前ね、殺すにしても確かめるのが普通だろ?」


「だから目をつぶした後に確かめるつもりだった」


 しれっとそう答える灰島に、クラブと呼ばれた男は大きくうなだれた。


「ってか、お前コクチョウ辞めたんだろ? それ、完全に暴行罪に問われるから」


「バレなければ問題ない。そのために視界は奪ったし、この路地に入るにあたり監視カメラの死角であることも確認済みだ」


「……だろうね」


 ファントムは優秀な諜報員だ、いや、だったと言うべきなのだろうか?


「お前、本当にコクチョウ辞めんの?」


 そう聞けば、灰島は間髪入れず「あぁ」と答える。


「なんで?」


「なんとなく?」


「今どきか!?」


 突っ込むクラブに灰島は笑う。


「……俺、今『瀬尾恭介』って名前なんだ」


「俺は『灰島平太』だ」


 妙な自己紹介にお互い笑いあって、拳をつき合わせる。これがいつもの挨拶だった。



 まずは朝食でも、と二人してイネダに足を運ぶ。


 瀬尾は灰島寄りも少し若いだろうか? 身長は灰島とそれほど変わらない、均整の取れた体つきも灰島に勝るとも劣らない。緩やかにパーマのかかった髪はブラウンに染められ、少し垂れた目は柔らかい雰囲気を出し、軽い男にも見える。


「で、お前が俺の監視役か?」


 そう尋ねる灰島に、瀬尾も苦笑いで「あぁ」と答える。


「まだ『有給休暇中』だろ? というか、こんな仕事してたら監視対象になることくらい分かっていただろ?」


「だからといって、それで姿を完全に消したらそれこそ抹殺対象だ。俺は普通の生活を送りたい」


「普通ねぇ」と言いながら、瀬尾は出されたトーストにいちごジャムを塗った。ちなみに灰島は手作り玉子ペーストだ。


「普通の何がいいわけ? 満員電車に乗れば痴漢の冤罪を食らって、会社に行けばパワハラだセクハラだ、ついにはホワハラだと訴えられ、部下を飲みに誘えば、『それは残業ですか?』と返され、総務から反省文を請求される。小遣いは極限まで切り詰められ、昼飯に使える金はワンコイン。家に帰れば子供はおろか妻にまで無視される。これのどこに憧れる要素があるんだ?」


「……瀬尾、苦労してるんだな」


 しみじみそう言えば、「違う!」と返される。


「別に俺がそんな家庭を持ってるわけじゃないって、お前も知ってるだろ? 任務の疑似家族! ってか、お前だってやったことあるだろう?」


 そう言われ、「そうだな」とコーヒーをブラックのまま口に運んだ。サクリとトーストを口に運ぶ。きっと、このトーストは美味しい部類に入るのだろう。コーヒーも専門店なのだから、美味しいに違いない。


 けれど、『美味しい』の基準が分からない。一体、何が『普通』で、どんな違いがあれば『美味しい』に変わるのか?


「『あなたには分からない』と言われた」


 灰島の言葉に、瀬尾は何も返せなかった。何故なら、彼がどうしてこんなことを言うのか、その理由を知っていたから。


「俺には『普通』と『疑似家族』の違いが分からん」


 彼が幼い頃より『疑似家族』に駆り出される子供役をしていたことは、コクチョウにいるものなら誰もが知る事実だった。


「別にそんな違い、知りたいとも思ったことは無いが……」


 知りたいと思ってしまった。そのきっかけが何であれ、機械のAIですら貪欲に知識を貪ろうとするのに、人間がそうならないはずがない。


「……いんじゃね?」


 小さくそう呟いて、瀬尾はジャムたっぷりのトーストを齧った。


「お前、働き過ぎだもんな。人生の夏休みだと思えばさ」


「なんだそれ、死ぬフラグでも立ってるか?」


 そう聞き返す灰島に、瀬尾は吹き出すように笑った。


「ま、お前が本気で姿消したら誰にも見つけられるわけないし、何やらかしても止める自信もないしな。お前が世界を憂いてロシアの大統領暗殺を計画とかしてなくて良かったわ」


「少し考えたけどな。さすがに一人だと実行に移すのは難しいと判断した」


「……」


 瀬尾の手から落ちるトースト。


「冗談だ」


 そのセリフにガタっとテーブルが音を立てた。


「……それ、冗談にしても洒落にならないぞ。他では絶対言うなよ?」


「ん? そうか、気を付けよう」


 こうして、元同僚との和やかな朝食が終わった。

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