第2話 夜に咲く棘、昼の幻影

あの夜、悠真が部屋を去ってからというもの、美桜の心には、底の見えない沼のような不安が横たわるようになった。月明かりの届かぬ深淵に、何かが潜んでいるような、言い知れぬ恐怖。彼の指が触れた頬や首筋の熱は、翌朝になっても微かに残り、美桜の肌に、見えない棘となって突き刺さっていた。それは、初めて知る、自分の身体が他者の欲望の対象となり得るという、生々しい現実だった。そして、その全てが、美桜にとって言いようのない嫌悪感を伴っていた。彼に触れられた肌が、汚されたかのように感じられた。


それ以来、美桜は悠真に対して、無意識のうちに警戒心を抱くようになった。リビングで勉強を教えている時も、食事の時も、あるいは廊下ですれ違うほんの一瞬でさえ、悠真の視線が自分のどこに向けられているのか、美桜は常に探ってしまう。彼の瞳が、不意に自分の胸元や腰、脚へと滑るたび、美桜の身体はぎゅっと強張り、心臓が鉛のように重くなるのを感じた。それは、まるで目に見えない糸で操られているかのような感覚で、美桜は自身の意思とは裏腹に、その糸に引かれるがままの身体に、深い嫌悪感を覚えた。彼の存在そのものが、美桜にとっては息苦しいものへと変わりつつあった。


悠真もまた、美桜の変化に気づいていた。彼女が自分の存在を避けるように、僅かに身体をずらしたり、無言で間にクッションを置いたりするのを、悠真は黙って見ている。だが、その瞳の奥には、美桜の警戒心を試すような、あるいはその変化を楽しむかのような、計算された光が宿っているように美桜には思えた。それは、中学三年生という年齢が持つ、少年と男性の狭間にある、暗く深い欲望の影だった。


美桜は、教育学部で国語を専攻する者として、悠真の学力向上を助け、彼の成長を支えるという家庭教師としての役割と使命感を強く意識していた。だが、悠真の行動が、その使命と激しく対立する。悠真を指導する「教師」としての自分と、彼の行動に嫌悪感を抱く「一人の女性」としての自分が、美桜の心を深く引き裂いた。彼がただの生徒ではなく、自分を性的な目で見ているという事実に、美桜は強い嫌悪感と、教師としての倫理観との板挟みに苦しんだ。美桜は、このままでは悠真が将来、同意のない性的な行為に走り、不同意性交等罪のような取り返しのつかない罪を犯してしまうのではないかという強い危機感を抱き始めていた。彼を性犯罪者にしてはならないという、ある種の悲壮な使命感に突き動かされていた。


ある日の家庭教師の時間。悠真はいつものように、気だるげに教科書を開いていた。今日は、近代文学に登場する女性の心理を読み解く課題だった。美桜は、主人公の複雑な心情を丁寧に解説していた。

「……彼女のこの葛藤は、世間の目に晒されることへの恐れと、秘めたる恋情の板挟みから生まれているの。言葉にできない想いというのは、時に人を縛り付ける檻となるのよ」

 美桜がそう語り終えた時、悠真が不意に、美桜の肩に手を置いた。

「ねえ、美桜姉ちゃん。ここ、もっと教えてよ。俺、よくわかんない」

 悠真の声は、少年らしい無邪気さを装っていたが、その手のひらは、美桜のブラウス越しに、彼女の肌の温もりを直接探るかのように、じんわりと熱を帯びていた。美桜は身を固くする。彼の指先が、肩の丸みに沿って微かに滑り、彼女の鎖骨の近くまで忍び寄るのを感じた。悠真の指先が触れるたび、美桜の肌には、得体の知れない虫が這うような生理的な嫌悪感が走った。彼の指は、美桜にとって「汚れたもの」のように感じられた。

 (ダメ、ダメよ……!)

 美桜は瞬時に、その手を振り払いたい衝動に駆られた。しかし、悠真の視線はあくまで教科書に向けられており、まるで純粋に勉強を求めているかのような顔をしている。もしここで強く拒否すれば、彼を傷つけ、家庭教師としての関係性まで壊してしまうかもしれない。その重圧が、美桜の身体を石のように動かなくさせた。(まだ引っ越してきたばかりだ。この家での生活を穏やかにするためにも、ここで波風を立てるべきではない。しかし、この行為は……)

「ゆ、悠真くん、そこじゃないわ。ここよ」

 美桜は震える指で教科書の別の箇所を指し、無理に話題を逸らした。悠真は不満げに手を離したが、その唇の端が、微かに笑みを浮かべていたのを、美桜は見逃さなかった。まるで、僅かながらも自身の狙いが通じたかのように。

 「ねぇ、美桜姉ちゃん、いいでしょ? ちょっとだけ」

 悠真が、教科書に目を戻したまま、小さな声で呟いた。その言葉は、美桜の耳の奥で、彼の甘えるような声とは裏腹に、強い要求の響きを含んでいた。それは、美桜の心の同意を試すかのような、狡猾な問いかけだった。しかし、美桜は悠真のそうした「お願い」が、彼女の「嫌だ」という意思を踏みにじるハラスメントであると本能的に理解していた。

 美桜は内心で「これは教育的な指導なのだ」と自分に言い聞かせつつも、悠真の行動に教育者としてどう対応すべきか苦悩した。彼がただの生徒ではなく、自分を性的な目で見ているという事実に、美桜は強い嫌悪感と、教師としての倫理観との板挟みに苦しんだ。「もし、私がここで彼を止めなければ、彼はもっとひどいことをするかもしれない。他人の同意を無視するような人間になってしまうかもしれない」という、底知れない恐怖が美桜の心を締め付けた。


美桜は、悠真との距離を保つために、様々な「回避術」を身につけ始めた。勉強中は常にテーブルの端に座り、教科書や辞書を間に積んで、物理的な障壁を作る。悠真が近づいてくれば、用事を思い出したかのように立ち上がり、キッチンへ向かったり、洗面所へ行ったりして、その場を離れる。夜は必ず部屋の鍵を二重にかけ、決して隙を見せないようにした。だが、そうすればするほど、悠真はより巧妙に、あるいは隙を突くようにして、美桜に接近しようとするのだった。それは、まるで獲物を追い詰める捕食者と、必死に逃げ惑う獲物の間に繰り広げられる、言葉なき攻防戦だった。


その夜も、美桜は大学の課題を終え、ベッドに横になっていた。窓から差し込む月光が、部屋の隅に朧な影を落としている。昼間の攻防で疲弊した美桜の心は、深く沈み込んでいた。

 不意に、部屋のドアが、ごく微かにきしんだ音がした。美桜の身体が、電流に打たれたかのように硬直する。心臓が、耳元で激しい鼓動を打ち始めた。悠真の気配。それは、美桜の部屋の壁一枚隔てた隣から、染み出すようにして伝わってくる。

 「美桜姉ちゃん……」

 ドアの向こうから、悠真の声がした。第一話の夜のように、甘く、しかし今回は明確な要求を秘めた響き。

「眠れないの? おやすみのキス、してくれる?」

 美桜は息を詰めた。声が出ない。応じなければ、悠真はまた、あの日のように部屋に入ってくるかもしれない。だが、唇に触れさせることだけは、どうしても避けたい。まだ見ぬ、本当に愛する人とのファーストキスは、美桜にとって何よりも大切に守りたかった聖域だった。それを、こんな形で侵されることなど、想像すらしたくなかった。

 美桜は、覚悟を決めて、ゆっくりと起き上がった。ドアを開け、わずかな隙間から悠真を覗き込む。悠真は、パジャマ姿で、暗闇の中にぼんやりと立っていた。彼の目は、月明かりを吸い込み、美桜の唇をじっと見つめている。

「ゆ、悠真くん。もう、大きいんだから。おやすみのキスなんて、子供じゃないんだから」

 美桜は必死に声を絞り出した。

「でも、寂しいんだ。美桜姉ちゃんが来てから、寂しくないはずなのに。もっと近くにいたいんだ」

 悠真の声は、ひどく切なげに響いた。だが、美桜はそれに騙されない。彼の瞳の奥に、獲物を捕らえるかのような、強い意志が見えた。彼の言葉は、まるで蜜を含んだ毒のように、美桜の心を絡め取ろうとしているように感じられた。

「だ、ダメよ。おやすみのキスは、ほら、ここ」

 美桜は、震える手で自分の額を指差した。悠真は、その指先をじっと見つめると、ゆっくりと美桜に顔を近づけてきた。

 美桜は身を固くする。悠真の体温が、月の光のようにひんやりとした廊下の空気に、熱い塊となって迫る。彼の息遣いが、美桜の肌を撫でる。美桜は目を固く閉じた。

 悠真の唇が、美桜の額に、そっと触れた。

 (ああ、良かった……)

 美桜が安堵したその瞬間だった。悠真の顔が、わずかに、しかし素早く動いた。彼の唇が、額から美桜の眉間、そして滑るように鼻筋を伝い、美桜の固く閉じられた唇へと向かう。

 (ダメ、それだけは! 嫌、嫌、嫌! 吐き気がする……!)

 美桜は咄嗟に顔を強く逸らした。唇を固く閉じ、身体を捩じる。悠真の唇は、空を切った。彼の顔が美桜の頬に押し付けられ、悠真の鼻先が美桜の耳元を掠める。美桜は悠真の唇が接近するたびに、生理的な嫌悪感で鳥肌が立ち、胃の底から吐き気が込み上げてきそうになるのを感じた。

 「ダメよ、悠真くん。これは、私が嫌だって言ってるの。相手が嫌だって言ったら、絶対にやめなきゃいけないことなのよ。わかってる?」

 美桜は、震える声で、しかし明確な言葉を紡ぎ出した。その声には、家庭教師としての毅然とした響きと、一人の女性としての必死な訴えが混じり合っていた。悠真の瞳が、美桜の言葉に一瞬だけ揺らいだ。彼は、美桜の純粋な恐怖と、その言葉の重さを、まだ完全に理解しているわけではない。しかし、美桜の強い意思が、彼の行動を止めた。

「……ちぇ」

 悠真が、小さく舌打ちをしたのが聞こえた。美桜の耳朶に、彼の吐息が熱く感じられる。悠真の腕が美桜の腰に回り、彼女の身体をぐっと引き寄せる。美桜の背中が、悠真の鍛えられた胸に触れる。その身体は、まだ少年特有のしなやかさを残しながらも、確かな力強さを持ち始めていた。美桜は、このままでは本当に抵抗できなくなる日が来ることを、その肌で痛感した。

 美桜の瞳に、恐怖と絶望が宿った。彼女の必死な抵抗と、その瞳の奥に宿る純粋な怯えに、悠真の動きが、ぴたりと止まった。彼は、美桜を抱きしめたまま、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、美桜の震える身体の感触を、確かめるかのように。

 やがて、悠真は美桜の身体から腕を離し、ゆっくりと後ずさった。

「……おやすみ、美桜姉ちゃん」

 その声は、諦めと、しかし、まだ諦めきれない執着が混じり合った響きだった。悠真は、美桜の部屋を静かに閉め、闇の中に消えていった。


美桜は、その場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、汗がじわりと背中に滲むのを感じた。唇を固く閉じ、何度も深呼吸を繰り返す。

 (ああ……私は、いつまで、これを避け続けられるのだろう……)

 美桜の心は、深い絶望に沈み込んでいく。自身の身体は、悠真の存在によって、嫌でも常に「女」であることを意識させられる。彼の熱い視線が肌を這い、指先が触れた感触が残像のように残る。そして、拒絶したいはずの身体の奥底で、微かに生まれる、理解できない反応。それが、美桜自身を何よりも深く傷つけていた。家庭教師として彼を導かなければならないのに、私は彼にこんな目で見られている。これは教師失格だ。このままでは、彼が将来、同意のない性的な行為に走り、不同意性交等罪のような取り返しのつかない罪を犯してしまうかもしれない。 美桜は、自分の無力さと、彼の未来に対する究極の苦痛に苛まれた。

 月明かりが、静かに美桜の部屋を照らしている。だが、その光は、美桜の心の闇を照らすには、あまりにも頼りないものだった。

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