月下の蜜事
舞夢宜人
第1章 予兆の同居、忍び寄る影
第1話 春の兆し、届かぬ指先
新緑が目に眩しい四月のことだった。
月島美桜は、慣れないキャリーケースを引いて、新しい生活の場となる月島家の門をくぐった。そよぐ風が、淡い桜の残り香を運び、まだ冬の寒さを引きずる指先に、微かな春の温もりを教えてくれる。大学進学という希望に満ちた門出でありながら、どこか胸の奥には、故郷を離れたことによる、名状しがたい不安の澱が沈んでいた。
玄関で美桜を迎え入れたのは、月島家の当主である叔父と、悠真の母である叔母、そしてその息子、つまり従弟にあたる悠真だった。叔母は美桜の母の妹にあたり、美桜の母の方が年長で先に結婚したと聞いている。昔から変わらぬ朗らかな笑顔で美桜を抱きしめた。
「美桜ちゃん、よく来たわね。これで悠真も寂しくないわ」
その言葉に、美桜はそっと悠真に視線を送った。中学三年生になったばかりの悠真は、どこか気だるげな表情で美桜を見ていた。身長は美桜の170センチを既に少し上回り、中学生としては大柄な部類に入るだろう。柔道部に入っていると聞いている。まだ少年特有の線は細いが、その佇まいには漠然とした成長の予感があった。美桜は「お久しぶり、悠真くん」と微笑みかけたが、悠真は軽く頭を下げただけで、言葉は返ってこなかった。その無愛想さに、美桜は一瞬戸惑ったが、思春期の男子によくある態度だろうと、すぐに納得した。
美桜に与えられた部屋は、悠真の部屋のちょうど隣だった。荷物を運び終え、窓を開けると、隣の部屋の窓も開いており、微かに柔道着を干すような匂いが漂ってきた。新しい生活の気配は、まるで水面に広がる波紋のように、美桜の心に静かに広がっていく。
「隣が悠真くんの部屋なのね。これで勉強を教えてあげるのも便利だわ」
独りごちた美桜の声は、夜風に吸い込まれていった。
引っ越しから数日後、最初の家庭教師の授業が始まった。
リビングの大きなテーブルを挟んで、美桜と悠真が向かい合う。美桜は国語の教科書を開き、万葉集の歌を指し示しながら、その情景や作者の心を解説し始めた。
「……この歌は、愛する人への抑えきれない思いを、火山の燃え盛る炎に喩えているの。古の人も、現代の私たちと何ら変わらない、熱い心を抱いていたのね」
美桜の声は、朗らかで、しかしどこか透き通るような響きを持っていた。教師の卵として、生徒に寄り添い、言葉の奥深さを伝えたいという情熱が、その声に宿っている。
悠真は、気だるげにペンを転がしながら、教科書に目を落としていた。しかし、その視線は時折、美桜の細く白い指先や、ブラウスの首元から覗く鎖骨、あるいはふとした瞬間に視界に入る柔らかな胸元へと滑っていくのを、美桜は感じていた。
(気のせいだわ。まだ中学生とはいえ、男の子だもの。こんなに近くに大人びた女性がいるのが珍しいだけ……)
美桜は内心で自分に言い聞かせる。だが、悠真の視線には、純粋な好奇心だけではない、何か得体の知れない熱が混じっているような気がして、胸の奥が微かにざわついた。
「悠真くん、この歌の読み仮名、書けるかしら?」
美桜が悠真の隣に身を寄せ、教科書を指差したその時だった。悠真の持っていたペンが、不意にテーブルの下に転がった。
「あ、すみません」
悠真はそう言いながら、素早く身体をかがめた。美桜も反射的に身を乗り出し、ペンを探そうとする。その瞬間、悠真の指先が、テーブルの下で美桜のふくらはぎに、微かに触れた。
ぴくり、と美桜のふくらはぎの筋肉が小さく震えた。絹のような薄手のストッキング越しにも、悠真の指先の熱と、その微かな圧力が伝わってくる。それは、ほんの一瞬の出来事だったが、美桜の背筋に、冷たいものが一筋走った。嫌悪感が、胃のあたりからせり上がってくるようだった。
「あった」
悠真は何事もなかったかのようにペンを拾い上げ、悪びれる様子もなく美桜を見上げた。その瞳は澄んでおり、美桜は自分の感じた違和感が、気のせいだったのかと混乱した。
だが、悠真がペンを握り直すその指先が、わずかに震えているように見えたのは、美桜の目の錯覚だったのだろうか。そして、悠真が視線を戻した美桜の胸元に、一瞬だけ、じっと見入ったように感じたのも。
授業が終わり、夜になった。
美桜は自分の部屋で、大学の課題を広げながら、今日の出来事を反芻していた。あの指先の感触。そして、悠真の最後の視線。
(まさか、中学生の男の子が、そんな意図を……従弟相手に……?)
美桜は首を振り、思考を打ち消そうとする。だが、一度芽生えた疑念は、まるで夜闇に咲く月見草のように、静かに、しかし確実にその花弁を開いていくようだった。
数日後、悠真の家庭教師の授業中。その日の国語は、源氏物語だった。美桜は光源氏の恋物語を、繊細な言葉遣いで解説していた。悠真は一見真剣に聞いているようだったが、その手はいつの間にか美桜の座る椅子の背に回されていた。美桜が身じろぐと、彼の指先が、彼女の髪に触れるか触れないかの位置で、静かに漂う。
「ねぇ、美桜姉ちゃん。俺、テストでいい点取ったら、ご褒美ほしいな」
不意に悠真が、教科書から目を離さずに言った。その声は、少年特有のまだ安定しない声変わり途中の音域で、どこか甘えを含んでいた。
「ええ、もちろんよ。どんなご褒美がいいかしら? 参考書? それとも、悠真くんの好きなもの、何か作ってあげましょうか?」
美桜は努めて明るい声で応じた。だが、悠真の視線が、美桜の顔からゆっくりと滑り落ち、彼女の胸元へと向けられたのを、美桜は感じ取っていた。ブラウス越しに、わずかに透けて見える白いインナーウェアの輪郭。美桜の胸が、ぎゅっと締め付けられるような錯覚に陥った。
「んー……。じゃあ、期末テストで学年で五番以内に入ったら、美桜姉ちゃんの胸、触らせてほしいな。ブラジャーの上からでいいからさ」
悠真は、あくまで無邪気な調子で、しかし、その瞳の奥には、確かな探求心と、美桜の反応を試すような熱が宿っていた。
美桜は、息を呑んだ。心臓が、まるで予期せぬ落雷に打たれたかのように、激しく脈動する。耳の奥で、自身の血潮がざわめく音を聞いた。
「な、何言ってるの、悠真くん! 馬鹿なこと言ってないで、勉強に集中しなさい! そういうことは、男の子と女の子の間でするものじゃないのよ!」
美桜は咄嗟に声を荒げた。顔に熱が上り、それが悠真に悟られないよう、必死に俯いた。(何が「誰にも言わないし、悪いことじゃない」よ! 誰にも言わないからこそ、いけないことなのよ! この中学生は、何を言っているの? その無邪気な顔の裏で、何を考えているの? 嫌だ、嫌だ、触らないで……!)
悠真は、そんな美桜の様子を観察するように、じっと見つめていた。彼の表情は変わらない。しかし、その視線は美桜の頬の赤みや、震える肩を捉えていた。
「えー、ダメ? いいじゃん、ブラジャーの上からだよ? 誰にも言わないし、別に悪いことじゃないじゃん」
悠真は、さらに追い打ちをかけるように、ごく小さな声で、しかし耳元で囁くように言った。その声は、美桜の耳の奥で、甘く、そして邪悪な響きとなってこだました。
美桜の心の中で、怒りと羞恥が渦巻いた。しかし、この従弟(いとこ)を強く拒絶して、この家での関係がギクシャクしてしまうのは避けたいという思いが、美桜を躊躇させた。まだ引っ越してきたばかりだ。穏やかな新生活を送るためには、波風を立てるべきではない。
美桜は、震える手で教科書を握りしめた。
「だ、ダメよ……。いい点取ったら、もっと美味しいお菓子を作ってあげるから。ね?」
美桜は、必死で笑顔を作ろうとした。唇が、震えているのが自分でも分かった。悠真は、美桜の様子をじっと見つめていたが、やがて、小さくため息をついた。
「……ちぇー。わかったよ、美桜姉ちゃんがそこまで言うなら。でも、絶対だよ? 美味しいお菓子」
悠真は、不満げな表情をしながらも、渋々といった様子で頷いた。美桜は、その言葉に安堵し、心臓の早鐘がようやく落ち着きを取り戻すのを感じた。だが、悠真が教科書に視線を戻したその時、彼の唇の端が、僅かに吊り上がっていたのを、美桜は見逃さなかった。まるで、獲物を追い詰める捕食者のような、微かな笑み。
その夜、美桜が寝付こうとすると、隣の部屋から微かに物音が聞こえてきた。柔道の素振りをするような、低い唸り声。そして、何かが畳に落ちるような鈍い音。悠真はまだ起きているのだろうか。その音は、まるで悠真の内に秘めた熱情が、夜闇の中で静かに渦巻いているようだった。
突然、美桜の部屋のドアノブが、微かにきしんだ。美桜は息を潜め、耳を澄ます。ノブはゆっくりと下がり、ガチャリと小さな音がした。
美桜の心臓が、喉元までせり上がってくる。
(嘘でしょ……まさか)
ドアは、静かに、しかし確実に開かれた。闇の中に、悠真の背丈が、ぼんやりと浮かび上がる。彼の柔道で鍛えられたであろう、まだ幼いながらも確かな存在感が、美桜の五感を支配する。
「美桜姉ちゃん……」
悠真の、甘く、そしてどこか切なさを帯びた声が、闇の中で響いた。
美桜は、声が出なかった。全身の筋肉が硬直し、呼吸もままならない。
悠真は、ゆっくりと美桜のベッドに近づいてくる。月明かりが、彼の輪郭を僅かに照らしていた。彼はベッドサイドに立ち止まると、美桜の顔を覗き込むように、じっと見つめた。
美桜は、寝たふりをするしかなかった。心臓の音が、悠真に聞こえてしまうのではないかと怯える。
悠真は、そっと手を伸ばした。彼の指先が、美桜の頬に、微かに触れる。その指先は、ひんやりとしていて、しかし、すぐに熱を帯び始めた。美桜の肌が、粟立つのを感じた。
「美桜姉ちゃん、眠れないの?」
悠真の声が、すぐ耳元で囁かれた。吐息が、美桜の耳朶をくすぐる。美桜は身動ぎ一つできない。
悠真の指先が、美桜の頬から、ゆっくりと首筋、そして鎖骨へと滑り降りていく。まるで、柔らかな絹布を撫でるかのように、繊細な、しかし確かな感触。美桜の身体は、嫌悪とは裏腹に、微かに熱を帯びていくのを感じた。この熱が、何よりも美桜自身を深く傷つけた。
その指先は、美桜のパジャマの襟元をわずかに開き、その下にある、素肌の感触を確かめるかのように、わずかな時間だけ留まった。
(ダメ、お願い、止めて……! 嫌、嫌、汚される……!)
美桜は心の中で叫んだ。だが、声は出ない。彼女の純潔を守ろうとする理性と、悠真の存在がもたらす恐怖、そして僅かながら反応してしまう自身の身体への嫌悪感が、彼女を動けなくさせていた。
悠真は、満足したかのように、ゆっくりと指を離した。そして、もう一度美桜の顔をじっと見つめると、静かにベッドから離れた。
「おやすみ、美桜姉ちゃん」
その声は、微かに勝利を確信したような響きを含んでいた。悠真は、美桜の部屋を静かに閉め、闇の中に消えていった。
美桜は、その場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、汗がじわりと背中に滲むのを感じた。唇を固く閉じ、何度も深呼吸を繰り返す。
(ああ……私は、いつまで、これを避け続けられるのだろう……)
美桜の心は、深い絶望に沈み込んでいく。自身の身体は、悠真の存在によって、嫌でも常に「女」であることを意識させられる。彼の熱い視線が肌を這い、指先が触れた感触が残像のように残る。そして、拒絶したいはずの身体の奥底で、微かに生まれる、理解できない反応。それが、美桜自身を何よりも深く傷つけていた。家庭教師として彼を導かなければならないのに、私は彼にこんな目で見られている。これは教師失格だ。このままでは、彼が将来、同意のない性的な行為に走り、不同意性交等罪のような取り返しのつかない罪を犯してしまうかもしれない。 美桜は、自分の無力さと、彼の未来に対する究極の苦痛に苛まれた。
月明かりが、静かに美桜の部屋を照らしている。だが、その光は、美桜の心の闇を照らすには、あまりにも頼りないものだった。
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