転生したら“恋が見える家政婦”でした 〜魔法も剣もないけど、あなたの心はお見通しです〜

ソコニ

第1話「その日、私は初めて"恋"を見た」



 冷めきった紅茶が、苦い。

 

 真希は薄暗いワンルームマンションの窓辺に座り、もう何時間も外を眺めていた。三十五歳。独身。昨日、十年勤めた会社から解雇通知を受け取った。

 

 窓の外では、恋人たちが寄り添って歩いている。幸せそうに笑い合う姿が、ガラス越しにぼんやりと見える。

 

「私には、もう何も残ってない……」

 

 胸の奥が、きりきりと締め付けられる。息が苦しい。視界が歪む。

 

 ――ああ、これは。

 

 心臓発作だと理解した瞬間、真希の体は床に崩れ落ちた。薄れゆく意識の中で、最後に見たのは、窓から差し込む夕陽の光だった。

 

 それは、まるで誰かの恋心のような、淡い薄紅色をしていた。


 *


 目が覚めると、見知らぬ天井があった。

 

 木の梁が規則正しく並ぶ、古めかしい造り。鼻を突く藁と石鹸の匂い。手には柔らかい麻の布が握られていて、体を起こそうとすると、見慣れない服が視界に入った。

 

 粗末な、使用人の服。

 

「……え?」

 

 慌てて立ち上がり、部屋の隅にある小さな鏡を覗き込む。そこに映っていたのは、十八歳ほどの少女だった。栗色の髪、大きな瞳、そばかすの散った頬。

 

 真希ではない。でも、これは確かに自分だ。

 

 混乱する頭で状況を整理しようとしたとき、扉が勢いよく開いた。

 

「マリア! もう起きたのかい? ったく、昨日いきなり倒れるから、みんな心配したんだよ」

 

 エプロン姿の中年女性が、安堵の表情を浮かべている。どうやら自分は「マリア」という名前らしい。

 

「あ、あの……」

 

「ほら、ぼーっとしてないで。今日は新しい旦那様がいらっしゃる日なんだから。厨房の手伝いに行っておいで」

 

 有無を言わさぬ調子で背中を押され、マリア――いや、真希は廊下に出た。石造りの壁、ランプの灯り、すれ違う使用人たち。まるで中世ヨーロッパのような光景が広がっている。

 

 これは夢なのか、それとも――。

 

 考えを巡らせながら歩いていると、ふと気づいた。廊下を行き交う人々の周りに、薄っすらと色が漂っているのだ。

 

 こちらに向かってくる若い男性使用人の周りには、萌え出る若葉のような緑色。すれ違った中年のメイドの周りには、枯れかけた薔薇のような褐色。

 

 何これ……。

 

 目を凝らすと、その色は確かにそこにある。人によって色も濃さも違う、不思議な靄のようなもの。

 

 厨房に着くと、そこは戦場のような忙しさだった。大鍋から湯気が立ち上り、まな板の音が響き、怒号が飛び交う。

 

「マリア、野菜を切って!」

 

 指示に従いながら、真希は周囲を観察した。料理長の周りには落ち着いた茶色、下働きの少年たちの周りには様々な色が見える。

 

 そして――。

 

 視線の先で、一人の見習いコックが手を止めていた。十六、七歳だろうか。少年の周りには、朝露に濡れた花びらのような、淡い桃色が漂っている。

 

 その視線の先を辿ると、水場で食器を洗うメイドの少女がいた。亜麻色の髪を後ろで結び、真剣な表情で仕事をしている。

 

 少年が見つめるたび、桃色はふわりと揺れる。少女が振り向きそうになると、慌てて視線を逸らす。その瞬間、桃色は恥じらうように縮こまる。

 

 ……ああ。

 

 真希は理解した。これは、恋の色だ。

 

 人が誰かを想うとき、その心に宿る感情の色。切なくて、美しくて、見ているだけで胸が熱くなる何か。

 

「その日、私は初めて"恋"を見た」

 

 思わず呟いた言葉は、騒がしい厨房の音にかき消された。

 

 それは、夕焼けよりも切ない、薄紅色だった。


 *


 午後になり、屋敷中が緊張に包まれた。新しい領主、レオンハルト・グレイヴ・リュクセンブルクが到着するという。

 

 使用人たちは廊下に整列し、真希――マリアもその中にいた。重い扉が開き、一人の男性が入ってきた。

 

 二十代半ばだろうか。銀髪に近い薄い金髪、整った顔立ち、だが表情は能面のように無機質だ。鋭い青灰色の瞳が、並ぶ使用人たちを一瞥する。

 

「私がレオンハルト・グレイヴ・リュクセンブルクだ。今後、この屋敷の主となる」

 

 低く響く声。感情の欠片も感じられない口調。

 

 だが真希が驚いたのは、その態度ではなかった。

 

 彼の周りには、何も見えない。

 

 他の人々のように、色が漂っていない。完全な無色。まるで感情という概念が存在しないかのような、空虚な空間。

 

 レオンハルトの視線が、一瞬マリアを捉えた。その瞬間、背筋が凍るような感覚が走る。

 

「……」

 

 何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに視線を逸らし、奥の部屋へと歩いていった。

 

 列が解散し、使用人たちがざわめき始める。

 

「冷たそうな方ね」

「前の旦那様とは大違いだわ」

「でも、お若いのに立派な方よ」

 

 真希は混乱していた。なぜ彼だけ、色が見えないのか。本当に感情がないのか、それとも――。

 

 その夜、マリアとして初めての夕食の給仕を終え、自室に戻った。小さな部屋には、ベッドと机、そして小さな鏡があるだけ。

 

 ろうそくの灯りで日記を開く。どうやらマリアは、毎日日記をつけているらしい。最後のページには、昨日の日付で短い文章があった。

 

『明日、新しい旦那様がいらっしゃる。どんな方かしら』

 

 真希は震える手でペンを取った。この体で、この世界で生きていかなければならないのなら、せめて見えるものの意味を理解したい。

 

『今日、不思議なことが起きた。人の周りに色が見えるようになった。それは多分、恋の色。でも旦那様だけは無色。なぜだろう』

 

 ペンを置き、窓の外を見る。この世界の月は、元の世界と同じように優しく光っている。

 

 明日もまた、あの無色の男に会うのだろう。そして、様々な恋の色を見ることになるのだろう。

 

 前世では、ただ独りで死んでいった真希。

 この世界では、せめて誰かの恋を見守りたい。

 

 そう思いながら、マリアは静かに眠りについた。

 

 新しい人生の、最初の夜だった。

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