第2話「恋の香りは、白い花」


 朝靄の中、マリアは厨房への道を急いでいた。

 

 この世界に来て一週間。使用人としての仕事にも慣れ、人々の恋色を見ることも日常になりつつあった。朝の支度、掃除、給仕。単調な毎日だが、前世の孤独な日々に比べれば、ずっと温かい。

 

 厨房の裏口から外を見ると、見習いコックのトーマスが屈み込んでいるのが見えた。朝露に濡れる小さな白い花を、一つ一つ丁寧に摘んでいる。

 

 彼の周りの桃色が、朝の光を受けてきらきらと輝いていた。まるで恋心そのものが踊っているかのよう。

 

「トーマス、何してるの?」

 

 声をかけると、少年は飛び上がるように振り返った。

 

「ま、マリアさん! これは、その……」

 

 慌てて花を背中に隠す。頬が真っ赤に染まり、桃色の恋色もくるくると渦を巻いている。

 

「綺麗な花ね。誰かにあげるの?」

 

 意地悪な質問だとわかっていながら、つい聞いてしまう。トーマスはますます赤くなり、視線を泳がせた。

 

「ち、違います! これは料理に使うんです。白花草は、スープに入れると香りが良くなるって、料理長が……」

 

 嘘だとすぐにわかった。白花草にそんな効能はない。でも、その必死な様子が微笑ましくて、マリアはそれ以上追及しなかった。

 

「そう。じゃあ、美味しいスープを楽しみにしてるわ」

 

 厨房に入ると、いつものように戦争のような忙しさが始まった。野菜を切り、鍋をかき混ぜ、皿を並べる。その合間に、トーマスの様子を窺う。

 

 彼の視線は、相変わらず水場のエマに向けられていた。エマが笑うと桃色は明るくなり、他の男性使用人と話していると、嫉妬の青が混じる。

 

 そして昼休み。トーマスは勇気を振り絞ったように、エマに近づいた。

 

「あ、あの、エマ……」

 

「なあに、トーマス」

 

 にこやかに応えるエマ。だがマリアには見えていた。彼女の周りには、まだ恋の色が宿っていない。トーマスを友人としてしか見ていないのだ。

 

 案の定、トーマスは花を渡すことができず、ぎこちない世間話だけで終わってしまった。肩を落として厨房に戻る少年の背中が、ひどく寂しげだった。

 

 ……つい、手が動いちゃうんです。

 

 マリアの悪い癖。他人の恋路が気になって、つい首を突っ込んでしまう。前世でもそうだった。友人の恋愛相談に乗っているうちに、自分の恋を忘れてしまった。

 

 でも今は、この不思議な力がある。

 

 その日の午後、マリアは外出許可をもらった。使用人にも月に数回、買い物のための外出が許されている。

 

 石畳の道を歩き、市場を抜けた先。古びた看板に『虹の蔵』と書かれた小さな店があった。扉を押すと、鈴の音が響く。

 

「いらっしゃい」

 

 奥から現れたのは、腰の曲がった老婆だった。皺だらけの顔に、だが瞳だけは少女のように輝いている。

 

「初めての顔だね。何をお探しかい?」

 

 店内を見回すと、不思議な品物が所狭しと並んでいた。色とりどりの小瓶、様々な布、見たことのない道具。そして――。

 

「これは……香油?」

 

 小さな瓶を手に取る。『恋心を込められる白い花の香油』というラベルが貼られていた。

 

「ほう、良いものに目をつけたね」

 

 老婆がにやりと笑う。

 

「その香油はね、想いを込めて相手に贈ると、心が通じやすくなるという言い伝えがあるんだよ。もちろん、ただの言い伝えさ。でも信じる者には、不思議なことが起きるかもしれないね」

 

 マリアは迷わず財布を取り出した。給金は少ないが、これくらいなら買える。

 

 屋敷に戻ると、夕食の準備が始まっていた。忙しく動き回る中、マリアは隙を見てエマの部屋に向かった。

 

 使用人の個室は狭いが、エマの部屋は整理整頓が行き届いている。窓辺に小さな花瓶があり、枯れかけた花が飾られていた。

 

 マリアはそっと、香油の瓶を花瓶の横に置いた。メモも何もつけない。誰からの贈り物かわからないように。

 

 翌朝、期待していた変化が起きた。

 

「ねえ、みんな。誰か知らない?」

 

 朝食の席で、エマが小瓶を手に聞いて回っている。

 

「昨日、部屋に置いてあったの。白い花の香り……すごくいい匂い」

 

 彼女が瓶の蓋を開けると、ふわりと優しい香りが広がった。その瞬間、トーマスの顔が輝いた。昨日摘んでいた花と同じ香り。

 

「それ、白花草の香りだ!」

 

 思わず声を上げるトーマス。エマが不思議そうに彼を見る。

 

「詳しいのね、トーマス」

 

「あ、えっと……料理に使うから」

 

 また同じ言い訳。でも今度は、エマの反応が違った。

 

「料理? へえ、トーマスって本当に料理が好きなのね」

 

 初めて、エマがトーマスを「料理人の卵」として認識した瞬間だった。彼女の周りに、かすかに――本当にかすかに、薄い桃色が宿る。

 

 まだ恋ではない。でも、興味の芽生え。

 

 トーマスの恋色が、喜びで膨らんでいく。それを見て、マリアも嬉しくなった。


 その日の夕方、レオンハルトに夕食を運んだ。

 

 彼は相変わらず書斎に籠もり、一人で食事を取る。銀の燭台に照らされた横顔は、彫刻のように無表情だ。

 

「失礼します」

 

 給仕をしながら、マリアは彼を観察した。やはり、何も見えない。完全な無色。

 

「マリア」

 

 突然名前を呼ばれ、手が震えた。

 

「は、はい」

 

「今朝、使用人たちが騒がしかったが、何かあったのか」

 

 まさか恋の話とは言えない。マリアは当たり障りのない返事をした。

 

「エマが、誰かから贈り物をもらったようで。香油でした」

 

「香油か」

 

 レオンハルトは興味なさそうに呟いた。

 

「くだらない。感情など、判断を鈍らせるだけだ」

 

 その言葉に、マリアは思わず口を開いた。

 

「でも、人を想う気持ちは美しいものだと思います」

 

 青灰色の瞳が、マリアを射抜く。

 

「美しい? 感情に振り回され、理性を失い、愚かな選択をする。それのどこが美しい」

 

 否定はできなかった。前世の自分も、感情に振り回されて生きてきた。でも――。

 

「それでも、誰かを想える心があるって、素敵なことだと思うんです」

 

 レオンハルトは何も答えなかった。ただ、視線を窓の外に向ける。

 

 マリアは一礼して部屋を出た。廊下を歩きながら、ふと思う。

 

 彼は本当に、何も感じないのだろうか。それとも、感じることを拒否しているのだろうか。

 

 その夜、自室で日記を書いた。

 

『今日、恋の手助けをした。トーマスの恋色が嬉しそうに輝いていた。でも旦那様は相変わらず無色。感情を否定する人に、恋の色は宿らないのかもしれない』

 

 ペンを置き、窓の外を見る。

 

 厨房の明かりが見え、まだトーマスが働いているのがわかった。きっと明日も、白い花を摘むのだろう。エマのために、美味しい料理を作るのだろう。

 

 その健気な想いが、いつか実を結びますように。

 

 マリアは小さく祈りながら、白い花の香油の残り香を胸に、眠りについた。

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