9話 なんか一応叔父らしいが

「――出ていきます」


 自分がやってしまったことへの罪悪感と、ここにはいられないという半ば確信めいた思いが、まだ六か七歳の子供にそんなことを言わせた。

 そして、その言葉通りに結衣ちゃんはソファから立ち上がり、どこかへと行こうとしている。

 出ていく、という言葉が、リビングから出ていくことを指しているのか、それともこの家から出ていくことを指しているのかは、俺には正直分からない。

 ……いや、まあ家から出ていくだろうな。


 出ていって、その後どうする気なんだよと言いたくなった。

 兄貴が俺のところに預けたのにはそれ相応の理由があるはずだ。

 別に、親戚なんて他にもいる。ここからは随分遠いが、夏休みの間預けるってことなら全然ありだし、ぶっちゃけそっちの方が安心だと思う。

 それでも俺を選んだのには、兄貴なりの訳がきっとある。

 だから今結衣ちゃんがしようとしていることは、俺に迷惑をかけたからと、今度は兄貴に迷惑をかけようとしているだけだ。

 逃げだ、そんなもん。許さんぞ叔父さんは。


「待った」


 立ち去ろうとする姪っ子の腕を掴む。

 やっぱり妙に冷たくて、ちょっと心配になった。


 腕を掴まれた結衣ちゃんは俺を睨みつけ、感情を押さえつけた声を出す。


「……やめてください」


「嫌だ」


「っ、どうしてですか。私さっき、千夜さんのこと……殴ったんじゃないんですか?」


「いいや、撫でられただけだね。それに寝ぼけてたんだろ? 事故だ事故」


 あっちが感情を押し殺すなら、俺も軽薄な態度で迎え撃ってやる。

 細腕を握ったまま、肩を竦めた。

 結衣ちゃんは本当に睨み殺すような勢いで目を細め、そして言った。


「わ、たしが……そうは思えないんです」


「被害者がこう言ってんだから素直に受け取れっての。頑固な姪だな、ったく」


「千夜さんだって、私がいない方が気が楽なはずです」


「変わんねぇよ。小学一年生一人で出ていったとか気が気じゃないっつの」


「……頑固な叔父です」


「じゃあお互い様だな」


 歯を見せて笑ってやる。

 より一層目を細めた結衣ちゃんには、兄貴の面影があった。やっぱり親子だ。怖い。……だが、兄貴ほど威圧感はない。

 それに、兄貴はそんな簡単に弱みを見せない。兄貴の手は今の結衣ちゃんみたいに震えはしないだろう。俺が仮に兄貴の手を掴んだなら即座に張り倒されるが。


 まだたかが六、七歳の子供だ。

 俺だって大人じゃないが、それにしたって年上だ。心配なものは心配で、不安なもんは不安なんだ。

 今目の前の女の子が何を思って、何が原因でこんなこと言い出したのかなんて全部分かるわけじゃないけど、とりあえずこの子を出ていかせるのだけは違うってのは分かる。


「座って」


「……嫌です」


「結衣ちゃん、座って」


「一人にしてください!」


「一人にしたら、こうなったんだ。心配だからもう一人にできない。せめて何があったか教えてほしい。言えないなら、言えないなりにでいいから」


 真っすぐ見つめる。

 結衣ちゃんの顔を、目線を逸らさずに見続ける。

 頷いてくれるまで俺は決して手を離さないし、出ていかせもしない構えだ。

 その意思も込めた。


 それが伝わってくれたのか、結衣ちゃんは唇を引き結んだままソファに座った。

 自分の顔を隠すようにぬいぐるみを抱きしめて。

 多分もう、手を離しても大丈夫だと思った俺は拳を開き、そして結衣ちゃんの隣に座った。


「……近づかないでください」


「そう言ってる訳聞いてから考えるよ」


「私、千夜さんのこと嫌いです」


「そりゃ結構。別にいいよ、姪っ子出ていかせるよりはずっとマシだ」


 顔をさらにぬいぐるみに埋める結衣ちゃん。

 うー、と文句を言いたい気持ちを押さえているのがよく分かった。

 この辺り、やっぱり普通の子供じゃないなと思う。大人っぽい。感情表現はまだちょっと子供らしいけど。


「で、何があったん?」


「…………言いたくありません」


「っとに頑固な姪ですこと」


「……姪なんて」


「ん?」


「姪なんて、ほとんど他人じゃないですか。関係、ないじゃないですか」


 俺と視線を合わせることなく、前を向いたまま結衣ちゃんは言った。

 明確な拒絶のサインだ。

 まあ、最初からあんまり友好的ってわけでもなかったしな。

 それに、一理あるとも思った。


「確かに。叔父なんて、よく知らないのに親し気に話しかけてくる不審者みたいなもんだよな、そっちからしたら」


 俺も自分が叔父だなんて自覚はないし実感もない。

 もうそうなってから七年くらい経とうとしてるっていうのに、だ。


 未だに、初めて結衣ちゃんを見た時のことは覚えてる。その後はちょっと朧気だけど。

 兄貴に子供が生まれたらしいって知らされて、目玉飛び出るかと思った。だってあの兄貴だ。佳乃さんと結婚したのは知ってたけど、それはそれこれはこれ。

 父親になるらしい家族の姿が想像できなかった。


「でも、なんていうかさ」


「…………」


「俺はなんか一応叔父らしいけど、兄貴と結構歳が離れてるのもあって、あんまり結衣ちゃんのこと姪だとも思ってないんだよ」


 そう言うと、結衣ちゃんはほんの一瞬俺の方を見た。

 で、俺と目が合って気まずそうに逸らす。

 それにちょっと笑っていると、拗ねたようなくぐもった声が聴いてきた。


「じゃあ……私は千夜さんにとって何なんですか。姪じゃないなら、赤の他人ですか?」


「――妹」


「…………はい?」


「だから、妹。だって兄貴と俺、十二歳差とかだぜ? なら結衣ちゃんとも十二歳くらいの差だし、そういう判定になるじゃん」


「……ぇと……え、っと?」


 なんか本気で困惑させてしまったらしい。

 細められた目が、細さそのまま歪んでしまっている。

 もう俺と目完璧に合っちゃってるし。


 まあ、ただ俺の中で結衣ちゃんが妹判定なのは結構マジだ。

 姪だとも思ってるけどね。

 ややこしいが、割と近しい間柄だとみなしているのである。

 だからあれだ。これも反抗期ってことで一つ納得している。その原因の一つは間違いなく兄貴とかいう駄目な父親のせいだと確定させているが。


「どうだ。兄なら他人じゃないだろ。これで何があったか言えるな?」


「……屁理屈だし、そんなわけないじゃないですか」


「やっぱり頑固な姪だな、暫定妹」


「渋滞してます。やめてください」


 ため息一つ吐いた結衣ちゃんは、ぬいぐるみに顎を乗せるような体勢になりもう一度ため息。


「千夜さんがどういう人か、分かった気がします」


「どういう人だと思われたんだ……」


「お節介焼きなおじさんです」


 ……まあ、間違ってないか。


 納得の表情を浮かべた俺を半目で見た結衣ちゃんは三度ため息。

 おい、やめろ。別にそこまで変なことしてないだろ俺。兄貴に比べたら俺は随分良心的な部類だぞ、父親を引き合いに出して申し訳ないが。


「……でも、やっぱり言いたくないです」


「そんなに?」


「だって……だって、信じてもらえません。お父さんとお母さんと、お婆ちゃんたちしか、ちゃんと聞いてくれませんでした」


「……はぁ」


 と、今度は俺がため息を吐く番だった。

 俺は確かに、結衣ちゃんに兄貴の面影を感じたり、友好的じゃない態度に多少身構えていたところはあったかもしれない。

 でも一度だって、結衣ちゃんを邪険に扱ったつもりはない。

 信用がないってのも困りものだ。俺はこんなに聞く気があるというのに。


 俺は片手を出し、無造作に結衣ちゃんの頭を撫でた。

 さらさらした髪が手のひらを滑っていく。ちょっと気持ちよかった。


「さ、触っちゃ駄目です! は、早く離して――」


「――ちゃんと聞くよ。結衣ちゃんの言うこと、信じるって約束する。ドンと来い」


「……くだ、さ……ぃ」


 結衣ちゃんの声が徐々に小さくなっていって、最後には聞こえないくらいの大きさになった。

 対称的に目は大きく見開かれ、丸い目に俺をこれでもかと映しているのがよく分かる。

 少しの間固まって、そしてハッとしてぬいぐるみを抱きしめて気を取り直した。


「……笑いませんか」


「笑わない」


「否定しませんか」


「否定しない」


「………………もぅ、分かりましたよ……叔父さん」


「物分かりの悪い姪で大変だよこっちは」


 お互いちょっと睨み合う。


 で、その後満を持して、結衣ちゃんは語り出した。

 結衣ちゃんの秘密を。


「――一年くらい前から……悪い夢を見るようになったんです」

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