8話 姪っ子の寝言
寝てしまった結衣ちゃんを起こさないように極力音を立てないことを頭に刻みながら、俺は夕飯の支度に入った。
とりあえず米。ちょっと前に婆さんが送ってきた美味い無洗米を炊飯器の釜に突っ込んで水入れてボタン押す。昼を見た感じ、結衣ちゃんはあの小さい体で結構食べる気配があるので炊けるマックスまで炊いてしまおう。
で、米が炊けるまでの間に、ハンバーグのタネと味噌汁と……あとハンバーグの付け合わせでも適当に作ればいいだろ。
えーと、確かニンジンあったはず。これ甘くしたやつにするか。
「おっ、あったあった」
よしよし。
とりあえず買いそびれはなさそうだな。
念のためにレシピ確認して、と。
うーん……考えるの面倒くさいな。IHコンロ三口あるし全部いっぺんにやるか。
「とにもかくにも、具材切るとこからだな」
玉ねぎの皮むいてみじん切りにしてボウルに入れてレンチン。
してる間に調味料用意しといてひき肉こねたところにレンチン終わった玉ねぎと卵と牛乳いれてもう一回こねる。
よし、タネ完成。
次。
味噌汁……具どうしようかな。
棚を漁ったらわかめがあった。冷蔵庫の中に豆腐あったな。それでいいか。
鍋に水を適当に入れる。出汁なんて引くわけないので、そういう感じの粉をぶちこみ、味噌も突っ込む。豆腐とわかめを最後に入れて終わり。
念のため味見。……まあ美味いか、大丈夫だろ。
「さーて」
調べた感じ、ニンジンの甘いやつ(グラッセと言うらしい)はちょっと時間かかりそうだけど、まだ米炊けるまでちょっとあるから今から始めるのは早い。
ハンバーグも出来立ての方がいいだろうからこっちも今じゃないし。
……ふむ、暇になったな。
一応タネをラップかけて冷蔵庫に入れ、グラッセの材料を大体用意した俺は手を洗い、オレンジジュースを立ったまま飲みながらそう思った。
未だに結衣ちゃんは起きる気配ゼロだし、こりゃもしかしたら夕飯はもうちょっと先になるかもなぁ。
「……今のうちにやれることやっとくか」
俺は起きた結衣ちゃんが所望するかもしれないと、風呂掃除しておくことにした。
――で、かれこれ五分くらいしたところで風呂掃除を終えた俺の耳に、ふと声が聞こえた。
「ん?」
風呂場から脱衣所に出て、足拭きながらまだ聞こえるその声に耳をそばだてる。
何やら呻くような声だ。妙に苦しそうで、間違っても平穏な寝言か何かには思えない。
ただ、家に今いるのは俺と結衣ちゃんの二人だけのはずで……それが指すことはつまり、だ。
俺は水気を拭きとり、急いでリビングの方へ向かうことにした。
結衣ちゃんに何かあったのかもしれない。
一瞬兄貴の怒った顔が頭を過ったが、それ以上に姪っ子が心配だった。
辿り着いたリビングで俺が見たのは、やはり声の主だった結衣ちゃんの苦しそうな顔と、それから何とか逃れようと強張らせた体が俺がかけたタオルケットをきつく掴んでいる姿。
とりあえず、普通じゃないことだけは分かった。
俺は慌てて駆け寄り、
「だ、大丈夫か? 起きてる? おーい、平気?」
どうしたらいいのかいまいち分からなかったせいで声をかけることしかできない。
近づいたことで、より結衣ちゃんが苦しそうなのが伝わってくる。滝のように汗が流れて、息も荒い。なのに目が強く閉じられているのもちょっと変だ。
思わず肩を掴んで揺すった。冷静に考えたら明らかな体調不良者にするべきことじゃないかもしれないが、俺も焦ってた。
触った瞬間ひんやりとした冷たさが伝わってきたけど、それで冷静にはなれなかった。
「おい! 大丈夫か!?」
普段出さない大声が出て、俺自身もビックリする。
だが次の瞬間、それを遥かに上回る驚きが飛んできた。それでようやく我に返った。
「――うるさい!」
鼓膜を叩く叫ぶような声と、頬に感じる衝撃。
完全に身構えてもなかった感覚に、立ち膝だったのが尻もちついた。
見れば、結衣ちゃんが反射的に振り回したのだろう手が偶然にも俺の頬をぶっ叩いたらしい。
その拍子に床についた手に何か触れた。
結衣ちゃんは驚く俺にお構いなしに、タオルケットで全身を覆い、体を隠す。
そしてさらに叫んだ。
「うるさい! うるさい、うるさい!」
「結衣ちゃん……大丈夫か? なんか、どっか痛いところとかあるのか?」
「ずっと耳元でぼそぼそ喋って! ちらちら見えて! もう嫌なの! ――今、お父さんもお母さんもいないの!」
「…………」
悲痛な叫びだった。
慣れない環境に急に置かれたことへの不満が、思わず溢れてしまった感じだ。
隠れているせいで表情は見えないけど、きっと辛そうな顔をしてるに違いない。
……そうだよなぁ、兄貴も佳乃さんもいないもんな。そりゃ心細いわな。まだ小学一年生だし。
そんな納得と申し訳なさを覚える。
と、同時に。
俺は若干血の気が引いていた。
というのもだ。
なんか、明らかに結衣ちゃんの発言内容が寝ぼけているように感じてしまう俺は、死角をつく裏拳も相まって、兄貴の面影を感じてしまったからだ。
寝覚めがよくない時の兄貴は大体こんな感じだ。
ど、どっちなんだろうか。これは兄貴の娘だからこうなっているのか、それとも小学一年生は寝起きにぐずるとこんな感じになるんだろうか。
頼む、前者であってくれ。でないと俺はこの先全国の小学一年生に対して警戒心を向けざるを得なくなる。疲れるから嫌だ。
……まあ、冗談はこの辺にして。
機嫌は全く良くなさそうだが、とりあえずちょっと話さないと駄目かなこれは。
そう思って立ち上がろうとして、俺はそういえば手に触れていた何かの感触へ視線を向けた。
あのぬいぐるみだった。寝ている時に落としたらしい。
拾い上げ、結衣ちゃんに差し出しながら話しかける。
「結衣ちゃん」
「……うるさい、うるさい……!」
「ちょっとでいいので、顔だけでも見せていただけないでしょうかねー」
できるだけ優しい言葉で促してみるものの、タオルケットの膨らみとはみ出ている足の感じ的に、縮こまって耳でも塞いでるようだ。
こっちの言うことには聞く耳持たずって塩梅だな。
うーん困った。せめてぬいぐるみだけでも渡したいんだけど。あわよくばそれで落ち着いてほしい。
無駄なことだと分かっていながらも、結衣ちゃんの近くでぬいぐるみを動かしてみる。結果、無駄だった。
はぁ、とため息を吐きながら、もう一度話しかけてみる。
「結衣ちゃん、ぬいぐるみいる? 落ちてたけど」
「――っ!」
勢いよくタオルケットの中から現れた結衣ちゃんが、ぬいぐるみを求めて俺の方に体を寄せた。
俺はさすがに冷静になっているので驚くこともなく、普通に目を合わせた。
すると結衣ちゃんも、途中で止まって俺と向かい合う。
時間にして数秒もないくらいの間そうした後に、結衣ちゃんの視線が少し下に。次いで見開かれた。
「……ぁ。わ、私、何して……」
「寝てた」
「ご、ごめ……ごめんなさい、ごめん……なさい」
掠れた、聞くのも苦労するほどの小ささで俺に謝った姪っ子は、今にも死にそうな目をしていた。
光を失くした目が下を向き、そのまま落ちていきそうなレベル。
いくら何でも気にし過ぎだ。
「ぬいぐるみ、貰って……いいですか」
「ほい」
「…………ごめんなさい」
ぬいぐるみを抱きしめた結衣ちゃんがもう一度謝る。
心の底から反省の意思が伝わってきて、こっちまで気分が沈みそうになるので、気にしなくていいと言おうとした、のだが。
それより早く、結衣ちゃんが言葉を続けた。
俺はそれに、顔をしかめた。
「――出ていきます」
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