24話 恥を知り、己を知らず

1950年 3月6日

陽本ようほん帝国 帝都 近衛軍技術本部





 小早川栞菜かんなは、夜通しで真言と擬蟲に関わる検査と調査を行っていた。

 

 採取した体組織の分析、鎧殻の構造解析──技術本部の主要な人員をなかば強引に巻き込んで、それらの作業を並行して実施させたのが小早川だった。


 日が沈み、また上り、そして天頂に達するまでのあいだ、小早川は一切の休息をとることもなく試料と情報とに向き合っていた。予定されていない作業を押し付けられた技術本部の同僚も、これには感嘆を禁じ得なかった。


 技術本部の一室。

 ずらりと並べられた資料は机全体を覆い隠し、白熱電球の光を受けた文字が心なしか輝いて見える。そんな中で、ここしばらくの間、小早川は一枚の紙と睨み合っていた。


「……どういう意味なんでしょうかねぇ」




 昨日のことだ。

 増援にやってきた強化人間部隊と合流し、衝撃的な事態の推移を報告し終えた西条隊は、驚くべきものを目にした。小早川は、真言の身体に起こった変化をはじめ、坂之上卿との戦闘の一部始終を記録していたのである。


 それはきわめて判読困難な文字で書かれてこそいたが、内容は正確かつ緻密に一連の流れを記述しており、各人の発言から行動に至るまでを一言一句、克明に記していた。


 生身の人間には目視できなかった部分もあったが、それは真言と西条隊の面々によって補完され、小早川の記録は昨日の事件をほぼ完璧に記録し尽くした貴重な情報源となったのである。


 作業が一段落ついて、ふとその資料に目を通した小早川は、いくつかの疑問を抱いた。


「『覚えてる』だの『忘れてる』だのはまあ大杉さんの原因不明な記憶障害に起因するものと推定できるとはいえ……西条将監しょうげんとの会話はなんなんですかね、これ」


 西条からの奇襲を受けた坂之上卿が、その後に発したいくつかの言葉は、文字に起こしてみるとますます意味がとれないものに見えるのだった。


「なーんで突然、白居易はくきょいに問われた道林どうりんみたいなこと言い出したんですかね……なにかの暗喩……? でも七仏通誡偈しちぶつつうかいげなんてありふれたことしか言ってないですよねぇ。悪いことはせずに良いことをして、心を清く保ちましょう、って」


 自問自答を繰り返すが、睡眠を求めている脳はうまく動いてくれない。


 さすがに詰まりか、と考えたその時、部屋の扉が開いた。

 それに驚いた小早川は椅子から転げ落ちかけ、大きな音が鳴った。


「……大丈夫か?」


「あ、いや、大丈夫です。どうされましたか、西条将監」


 あらわれたのは西条だった。

 技術本部までの護衛を終えて、その後の報告を上げに行ったきり連絡がなかったが、どうやらかなり憔悴しているようだ。小早川は心配そうに言う。


「大丈夫ですか? 昨日の負傷、まだ治りきってないとか……」


「いや、骨折と内臓損傷だけだ。昨晩の時点で完治したよ」


「そうですか」


「ああ」


 気まずい沈黙が訪れた。

 こういう時、小早川から自発的に声を出すことは絶対にない。それは西条隊どころか、近衛軍の強化人間部隊全体の共通認識だった。たっぷり十秒以上の間をおいて、西条が口を開いた。


「……何を見ていたんだ?」


「あ、昨日の資料です。よくわからないところがあったので……ちょっと、話を聞いてもらってもかまいませんか?」


「いいだろう」


「あ、でも、西条将監の御用件から……」


「かまわん」


 西条はどこか調子が悪そうだった。

 だがその理由を考えて答えを導き出せると思うほど、小早川は自身の人間観察力を過信してはいない。言われたことを字義どおりに受け取って、普段通りの早口で話し始めた。


「西条将監が坂之上卿に対して十式擲弾砲で奇襲をかけた後のことです。坂之上卿が何の脈絡もなく『恥』や『ほまれ』について言及したと思えば、あまり意味がとれない発言を始めます。ここがどうにも、よくわからないんです。西条将監は──」


 小早川が顔を上げて様子を伺うと、真に迫った表情を浮かべている西条が目に入った。

 なにかまずいことを言ったか。そう考えるが、特に思い当たる節はない。そう結論づけた小早川は最後まで言い切ろうとしたが、動揺がそのまま口調に出た。


「……どう、お考えに、なりますか?」


「私が坂之上卿を攻撃したことで、近衛軍の部隊が集まってきただろう」


「あ、はい。十式擲弾砲の爆音はよく響きますからね。あのおかげで──」


「そこまで考えていなかった」


「え?」


「坂之上卿も、他の者も、私があの時攻撃したのは事態を他の部隊に知らせるためだと捉えていたようだが、そこまで考えて動いていたわけではない」


「あ、そうなんですか。でも、結果的にはそれでよかったのでは?」


 思ったままを口にする小早川を見て、西条は苦い表情を浮かべたままかぶりを振った。


「私は坂之上卿に有効打を与えられないことを分かった上で、そして増援を呼ぼうなどとは考えもせずに、ただ自己の誇りのために攻撃したんだ」


「そうですか」


 意味がとれない、と言うふうな顔をする小早川に、西条が声を荒げた。


「──私は、何の意味もない行為だと考えていながら! 何もできなかったという恥辱を回避するためだけに攻撃をしたんだ!」


 西条ははっとして我に帰った。

 目をぱちぱちと開閉させながら、なんとか言葉の意味を咀嚼しきった小早川が、恐る恐るといったふうに言う。


「それが、その……どうしたんでしょうか……?」


「なに……?」


「あ、いや、その、馬鹿にしているわけじゃないです! ごめんなさい! ほんとに、意味がわからなくて……それ、なにがいけないんですか?」


 西条は少しのあいだ呆然と立ち尽くした後、諭すようにして答えた。

 自分を責めろと、そう願うような言い様だった。


「私は近衛としての義務に忠実であることを忘れて、自分の意思のまま禽獣のごとく行動を起こした。それは過ちだ。恥だ。そうだろう?」


「そうかもしれませんが……あの状況で西条将監に責任があるとは見なされないと思いますよ? 遠離院卿だって、そんな風におっしゃらないと思いますが」


「責任の所在の問題ではない。動機の問題だ。坂之上卿ははじめ、私がなぜ行動を起こしたかに気付いていた。そしてこう言った。『誉と恥にばかりこだわっていると碌なことにならない』と……!」


 西条は大きく息を吸い、苛立ちをあらわにした。自分自身に対する苛立ちだ。


「私の、信念も理想もない卑しい心を見抜かれたんだ。私が本当に気にしているのは、近衛としての使命でも御国の未来でもない、自分自身の名誉だけだということを」


「はあ」


「……本当に、わからないのか」


 懇願するかのような西条の表情を見て、小早川は何か必死に返答を考えようとした。

 だが、出てくる言葉はどれも冗長で意味がないものばかりだった。もうどうしようもない、という諦めが脳裏によぎったとき、ふと口から漏れた言葉が、これだった。


「信念とか理想っていうのは、その人が生きていくための指針であって、実際に存在するものではないと考えます」


「なんだと……?」


 一度口をついた言葉は、濁流のように脳から供給されて止まらなかった。


「小官は帝国の御為おためになしうることをなす気でいます。これは小官の信念のようなものですが、結局は意味のないものです。あくまで、小官の生きる指針として立てた道標にすぎません。必要とあれば書き換えられますし、強風が吹けば倒れることもあるでしょう」


「それは、信念とは呼べないものだ」


 西条は否定したが、その口調は弱々しい。


「縁起、ってあるじゃないですか。普通の意味じゃなくて、龍樹ナーガルジュナの『中論』にある方のです。小官はこの言葉の通りだと思うんですよ。万物は相互に作用し合い、よって単体で成立するものはなく、すなわち諸法は空である、と。すごく自然科学的で、個人的にはかなり好きな主張です」


「それがなんだというんだ」


「世の中に本来、意味のあることなんてないんです。原因と過程と結果だけがあって、そこに人間が意味や意義を後付けしているだけ。考えれば当たり前のことですけど……」


 それ以上は言葉が出てこなかった。

 これから何を言ったとしても、良い結果をもたらす議論にはならないと直感したからだ。


 黙り込んだ小早川を前にして、西条は当惑した様子だった。これまで考えもしなかったことを考えさせられている人間の顔だ。彼女はあてもなく視線を泳がせた後、絞り出すようにこう言った。


「私は……お前ほど……割り切れない」


「それもいいんじゃないですか? 小官の言だって、別に真理ではありませんから」


「私の人生は、恥じることばかりだ。恥を感じたくないから、私は誉あることをしたがる。それが私の望むことではなくても……腹を切ろうとしたことだって、そうだ」


「小官とちがって社会性のある人には普通のことに感じますが。いや切腹はなかなかないことではありますけど……その異常な真面目さは西条将監の美徳でもあるのでは?」


 小早川は励ますように言った。いつもの早口で。

 再び沈黙が訪れた。西条がそれを破る。


「すまない。私の勝手な吐露に付き合わせたな……ありがとう」


「あ、いえ、そんなことは」


「しかし……意外と仏教にも造詣が深いんだな。科学者というか研究者は、そういうものには興味がないのだと思っていたが」


 西条は、つとめて話題を変えようと試みた。小早川の方からそうしてくれる期待が全くなかったからだが、それはかろうじて成功した。


「家格では遠離院家に遠く及ばないとはいえ、小早川家も一応は華族ですから。養女にも最低限の教養は要求されます。自慢ですが、四書五経は全部暗誦できますし」


「本当か」


「小官、頭だけは人よりいいので。それでも大学行かせてもらえるかはなかなか怪しかったんですが」


「そうだったのか?」


「ま、今でも世間的には女性が大学行くのは憚られてますしね。ましてや理科系は。小早川家は一度断絶した後に遠離院家の協力を受けて再興した事情もあって、遠離院卿の要求には逆らえなかったらしく、結局は許してもらいましたが」


 小早川の口調には明確な不満が含まれていた。

 仮に彼女が、遠離院家などとは程遠い庶民の家に生まれていれば、その才能はまず間違いなく埋もれて見つけられることもなかったのだろう。


「小官の人生は、遠離院卿に頼ってばかりです。小官がこの仕事についている理由の……まあ三分の一くらいはその返済というか、なんといいますか……」


 小早川はそこまで言って、続けなかった。

 ためらうようにして様子をうかがう彼女に、西条は嘆息して言った。

 

「すまない。また気を遣わせたな。私が内心を明かしたからといって、お前までそうする必要はない」


「あ、そうですか? じゃあ言いません」


 あまりにはっきりと言われた西条は、苦笑するしかなかった。





(以下、注釈)



•「中論」……二世紀ごろにインドの龍樹ナーガルジュナによって書かれ、仏教中観派の元となった経典のこと。


•「白居易に問われた道林」……唐の詩人白居易(白楽天)が、僧の道林に仏道の真髄を問いかけると、七仏通誡偈を引用して返されたという逸話のこと。

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