16話 予兆
1950年 3月5日
大
正午。
近衛軍兵舎は慌ただしさを増しつつあった。
輸送車両や装甲車両の出入りが激しくなり、着鎧した完全武装の強化人間さえ複数見られるようになっている。すれ違う近衛兵たちの面持ちにも厳しいものが見受けられるほどだ。
物々しいというだけでは表しきれない状況である。
「何があった?」
真言は言った。
練兵場に向かう真言に同行しているのは西条隊の面々と小早川、そして国家情報局から来たという楠木だ。真言の問いかけに答えたのは楠木だった。その回答はきわめて明瞭かつ簡潔な報告の体をなしていた。
「一時間ほど前に征夷大将軍官邸正門前で発砲と爆発がありました。被害は軽微。犯人は陸軍の過激派で、取り押さえられる前に拳銃自決。狙いは、現在将軍職を代行中の豊臣秀信副将軍であったと推定されます」
「秀信さまを……!?」
驚きを隠せない真言に、西条がこう付け加えた。
「副将軍は幸いにして難を逃れられた。車で移動するところを狙ったようだが、先行した護衛車を副将軍の乗車と誤認したらしい」
「この事件を受けて、近衛軍は緊急で警備態勢を強化。帝国軍も同様ですが、やはり不自然に動きが鈍い状態です」
楠木は無感情に述べた。
「楠木と言ったな。国家情報局の者がいったい何の要件だ?」
宮内省国家情報局。
将軍府とも近衛府とも繋がりのない、完全に独立した諜報機関だ。宮内省直轄──すなわち聖上の直接隷下にある。
国家安全保障に関わる情報の取り扱いや、外国勢力に対する防諜や間諜を一手に担うという性質上、謎の多い組織でもある。
「大杉真言第二隊長。お話は遠離院
「……いいだろう」
「まもなく国家情報局の特務部隊が軍務省に突入し、拘束されている叛乱軍将校の身柄を押さえる手はずとなっています。帝国軍部隊による抵抗が予想されるため、遠離院大将のご協力のもと、近衛軍部隊には検問と支援を行っていただくのです」
平然と告げた楠木だったが、小早川と真言は動揺を隠せない。
「ええ……大丈夫なんですかそれ。遠離院卿らしいと言えばらしい強硬さですが」
「小早川の言うとおりだ。通常の手順を逸脱しすぎているのではないか?」
叛乱以降の西条軍務大臣の動きは一貫して疑惑的である。
帝国軍が確保した叛乱軍将校の身柄引き渡しを頑として拒み、将軍職代理であるはずの副将軍を表立って批判するだけにとどまらず、帝国軍に対して近衛軍の活動を妨害するような指示を出していたという話まである。
だが、関東軍を中心として陸空軍に巨大な派閥を形成している西条大臣を政治的に排除しようとするのは難しい。それこそ叛乱軍とのつながりでも露呈すれば話は別だろうが。
「はい。いずれ必ず問題となるでしょう。ですが、今は秋吉亮二と豊臣天姫の居場所を見つけ出すことが最優先なのです。そのためには多少の横紙破りは不可欠です」
「国家情報局も天姫さまの行方をつかめていないということか」
「残念ながら」
「……官邸襲撃の事件。国家情報局の仕込みか、あるいはあえて見逃したな?」
「なぜそうお考えに?」
「帝国軍が警備に駆り出されて軍務省の人員が減る状況がなければ、いくら国家情報局と言えども軍務省突入は無理筋だろう。犯行の突発性も気になる」
「なるほど……あえてお答えいたしません」
それは回答と同義だ。
楠木はそれ以上何も言わなかった。
あたりを見回す。平野を筆頭とする西条隊の面々は無表情。小早川は話半分に受け止めているようだ。だが、西条だけが苦しげな表情を浮かべていた。
「それで、遠離院卿からの伝言とはなんだ」
「はい。二十六日に官邸で壊滅した第一警護隊についてです」
「……教えてくれ」
冷静であろうとつとめた真言だったが、それは成功しているとは言い難かった。楠木は淡々と続ける。
「将軍府は坂之上卿離反の噂が広まることによる混乱を恐れて高度な情報封鎖を行っていましたが、遠離院卿による布告を受けてようやく情報をよこしました」
布告というのは、けさ西条が話していた坂之上卿に関する通達のことであろう。
「当時、秀清公護衛のため官邸に詰めていたのは二十四名。うち生存者は、坂之上卿を除いた三名です」
「……続けてくれ」
「他二名はなお意識不明の重体ですが、本日の未明に石田
──石田さんは生き残ったのか。
その事実は喜ばしかったが、同時に真言はあることに確信を持った。他の生存者二人は、おそらく自分の想像通りの面子だろう。
「──二十六日の午前二時。征夷大将軍官邸に叛乱軍蜂起の一報が入った直後、突如として坂之上卿が抜刀。瞬く間に第一警護隊を壊滅させた、と」
真言よりも周りがざわついた。
すでにその可能性は周知されていたとはいえ、これで確定したのだ。
救国の戦女神は、いまや敵に回った。
その
「……残りの生存者は、前田と上杉だな?」
それを聞いて初めて、楠木は無表情を崩した。興味深げな笑みだ。
「その通りです……やはり、最も近い弟子であった貴方にしかわからないことがあるのでしょうか?」
「遠離院卿に伝えても同じように答えられただろう」
「先だってこの報告を受けられたとき、大将閣下は平然と受け入れておいででした。貴方よりもずっと冷静に」
遠離院刀麻呂は、真言にとって兄弟子に当たる人物だ。
坂之上沙羅双樹に師事し、彼女からあまりにも大きな影響を受けたことは共通しているが、その時期は異なる。真言が生まれたころには、すでに遠離院卿は師のもとを離れて十年を経、近衛少将をつとめていた。
師が遠離院卿について語ることは少なかった。そもそも、過去にどれだけの弟子を取り、彼らがどのような結果に至ったかさえも聞いたことがない。
ひとつ確かなことは、その誰もが坂之上沙羅双樹という人に対して、並々ならぬ感情を抱いていただろうということだ。自分と同じく。
──だが、今はそれほどでもないか。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
あまりに不快な言葉だった。とても自分の脳が考え付いたとは思えない言葉だ。それこそ、どこかから流し込まれたかのような異質さを持っている。
信じがたい不愉快さに眉をひそめた真言を、楠木が訝しげに見た。
「どうされました?」
「なんでもない。それが、『個人的な話』か?」
「はい。ですが……これ以上お時間を取らせるわけにもいきません。またいずれ、ということにしましょう」
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