6話 師の行方
1950年 2月28日
大
「本題に入る前に、まず一つ。昨晩の時点ですでに将軍府から、征夷大将軍豊臣
西条が伝えると、真言が安堵のため息をついた。
「この件に関する最大の問題は、将軍警護隊による厳重な警備下にあったはずの将軍がそれほどの重傷を負ったということそのものだ。貴官の方が詳しいことだろうが、秀清公の護衛には、
病室の空気がわずかに引き締まった。
坂之上沙羅双樹。
多くの陽本人は、教科書の一節の中にその名を見たことがあるだろう。陽本史上初の自然
戦国時代。
荒れ狂う時代の潮流に押し流されて消えた、坂之上という武家があった。その名は、わずかな史料以外には残ることもなく、せいぜい歴史学者が頭の隅に記憶する程度の重要性しか持たない。そのはずであった。
坂之上沙羅双樹という名は、後に太閤となる豊臣秀吉の隆盛とほぼ同時期に記述が増え始める。
不老不死の女武者。それが彼女の代名詞のようなものだった。
体内に潜む擬蟲そのものを殺すことでしか、寄生された生物を殺すことはできないのだ。
近代兵器の登場まで、擬蟲に対抗する手段はきわめて限られていた。生身の兵士が千人がかりで襲い掛かったとしても、傷を負わせるのが精いっぱいというほどの戦力差がそこにはある。
ために、歴史上の自然宿主への扱いは二極に分かれる。国家を挙げて討伐の対象とするか、厚遇してなだめすかし、守護神のごとき存在とするか。
坂之上沙羅双樹は、その後者に分類されるだろう。
当時、秀吉公の下で名を上げ始めていた武将大杉
1599年、関ヶ原の戦い。石田三成率いる西軍が勝利を収め、豊臣家の天下を確固たるものとしたこの戦いにおいても、不死の女武者は単騎で一千の首を落としたという逸話が残る。
そして1615年。
陽本を恐怖に陥れ、遷都の原因にさえなった三度目の
博多湾に上陸した十万の元軍は、
国家救済の大功をもって、坂之上沙羅双樹の名は伝説となった。それを羨むものも妬むものも、もはや存在しないほどの領域に達しながら、彼女はほとんど何の褒賞も求めず、また受け取らなかった。
唯一自ら求めたのは、左馬頭の官位のみであったという。
「師匠が──坂之上卿がいながら、秀清公が負傷するなどというのは信じがたい。叛乱軍の強化人間の中に、それほどまでの腕利きがいたのか?」
真言の言葉には深い実感がこもっていた。
殺せども死なずを体現するような人だ。それこそ、艦砲射撃でも浴びせられてようやく死ぬか死なないか、とさえ考えられるほどに。
その師匠が守る目標に傷を負わせろなどというのは、生身であればもちろんのこと、
「陸軍に照会したところ、今回の叛乱には陸軍所属の強化人間四十六名が加わっている。いずれも先の大戦に従軍し、昨年もしくは今年に復員した者たちだ。ただ、今のところ出身などに目立った共通性はみられない」
西条は小早川を見やった。
「あ、ええと……うち六名は生化研で死亡を確認。各地を襲撃し、鎮圧された叛乱軍では十五名の死亡が確認されています。あの、言っちゃなんですが、一部をのぞいてかなり旧式の強化人間なので、性能的に坂之上卿を相手どれるとはとても……」
「その通りだ。さらに言えば、そもそも征夷大将軍官邸を襲撃したのがどの程度の戦力か、ということさえわかっていない。官邸に詰めていた第一警護隊は壊滅しており、目撃者はほぼ皆無に等しいのだ」
第一警護隊の壊滅。覚悟していた事実だったが、真言は動揺を隠しきれなかった。
真言の指揮した第二警護隊は、生体化学技術研究所で真言自身をのぞいて全滅している。強化人間の膂力で引きちぎられる同僚の死にざまを思い出し、かすかなめまいが感じられた。
「……生存者は」
「正確な情報は入ってきていない。そうでしたね、遠離院卿?」
「左様。この件に関して、将軍府は奇妙なほどだんまりを決め込みたがっておじゃるからの」
そこで、ふと真言の思考がきれいにまとまった。ひとつの疑問が意図せず口から漏れる。
「それでは、秀清公はどのようにして難を逃れたのだ」
護衛である第一警護隊が壊滅し、自らも意識を失うほどの重傷を負わされるなかで、将軍はいかにして生き延びたのか。
「……二十六日の午前四時五分ごろ、坂之上卿本人が将軍府庁舎へと負傷した秀清公を伴ってあらわれ、守衛に秀清公の身柄を委ねたのち、行方をくらましている」
真言ははっとして、間もなく最悪の可能性に思い至った。それは、最悪の中の最悪といえる結論だったが、状況証拠がその確かさを補強していた。
いくら命と意識のある当事者が少ないとはいえ、戒厳下にあって近衛軍を預かる遠離院卿がその貴重な時間を自分への説明に割く理由が見えなかったのだ。だが、その最悪の状況が現実なのであれば──もしくは、遠離院卿がそう信じているのであれば、それが見えてくる。
「将軍府はうんともすんとも言わぬし、豊臣の関係者やそれらしい者をあたっても、誰一人として坂之上卿の行方を知らぬと申す。そして、一番の愛弟子であったそなたさえ知らぬとくれば、考えたくもない可能性が浮かんでくるでおじゃろう」
「いや……しかし……」
そんなことをするはずがない、などとは口が裂けても言えなかった。それを行う理由があればあの人はやるだろう。そしてその理由は、余人にはまったく計り知れないものなのだろう。
西条を見やる。すでに事の深刻さに気付いているのだろう、その面持ちは暗い。
次いで小早川に視線を移すが、どうやら何か技術的な思索にふけっているらしく、見られていることに気づいてもいないようだ。
「坂之上卿であれば、第一警護隊を壊滅させることも、秀清公が意識は失っても命は失わぬ程度に調整した怪我を負わせることも容易でしょう。あの人は故あれば、その程度のことは平然とやるお人です」
そう言った真言へ遠離院卿が向ける視線にはどこか含みがあったが、それがなんであるかはわからなかった。
「麻呂もまったくの同意見じゃ。そして坂之上卿が、理由がなんであれ御国に刃を向けた可能性があるというだけでも、戒厳の継続に十分な
「……ええ」
「とはいえ、坂之上卿は単騎で万軍に匹敵するが、一千の強化人間を代替することはできぬ。しかし豊臣天姫が叛徒により奪取され、しかもその叛徒に坂之上卿が手を貸しているとあれば、話は変わってくるのう」
遠離院卿は小早川を見やる。ひとしきりあらぬ方向に視線を泳がせた後、小早川が口を開いた。
「あの、はい……坂之上卿に関しては大杉さんという『替え』が出てきたわけですが、天姫さまは替えのきかない完全な一点ものです。戦略的価値で言えば、植民地一国を凌駕するといって差し支えありません」
そう言い切った小早川を、西条がどこか含みのある目で見た。おそらく、小早川がどこまでの機密情報に関知しているのかは西条も知らなかったのだろう。
強化人間技術に携わる技術士官であれば、擬蟲にかかわる軍事機密に触れられるだけの機密保持資格が必要なはずだ。たとえ同僚、上官と言えども、資格なくして情報を明かすことは許されない。
逆に言えば、ここでこうして語られている以上、すでにこの情報は機密でなくなってしまったということでもある。
「あー、わかりやすく言えば、坂之上卿は戦艦です。そして天姫さまはその建材を産出する採掘源──鉄鉱山にあたります。その重要性は、我が帝国が先の戦争で南方植民地を死守しようとしたことからも明白といえます」
「……帝国の強化人間に用いられている擬蟲は、すべて豊臣天姫から生まれたもの……正直、まだ受け入れがたい事実だ」
西条がためらいながら言った。この場にいる者の中で唯一、つい昨日までその事を知らなかったがゆえの発言だった。
「天姫さまは生後間もなく、擬蟲の
真言の発言を、小早川が遮るように口をはさむ。
「あの、『身ごもる』というのは少し語弊がある気がします……擬蟲は便宜上雌雄に分けているだけで本質的には無性生物なので。やってることは自己分裂なんですよ、あれは」
「……そういう仮説が主流だというだけだろう? それに今は生物学的な話をしているわけではない」
「いや、なんであれ厳密性は重要ですよ。前提知識のない人にものを教えるときは特に」
小早川はこれまでとは別人のように頑なだった。こだわりの強い性格なのは見て取れたが、ここまでとは予想していなかった。小早川は黙り込んだ真言を尻目に続ける。
「擬蟲の雌性は、世界でわずか二例しか見つかっていないほど希少なんです。探せば見つかる雄性とは話が違います。自己分裂能力をそなえていない雄性とは違い、雌性は一度の分裂で数十体の雄性を産み出すことができるうえに、再生能力も桁が違うんです。たとえば強化人間は腕を切断されると再生に半日以上かかりますが、天姫さまは材料さえあれば数分で完治します。にもかかわらず、擬蟲の雄性と雌性では基本的な身体構造にほとんど変わりがない。これは生体試料としては理想的です──天姫さまが生まれたのは1936年ですが、この時期はちょうど新ローマ帝国の強化人間が第四次
一息で言い切ると、小早川は呼吸を整えながら遠離院卿の様子をうかがった。
「……そして、まだ乳離れも済んでおらぬような稚児を外界から隔絶された研究所へ閉じ込め、今日に至るまでの十四年間、およそ人道からかけ離れた無数の人体実験に供した。現在の陽本が、ローマと肩を並べる強化人間最先進国であるのは、その犠牲あってこそのものでおじゃる」
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