第2話 迎火

少女の体温は、人のそれではなかった。


腕の中に収まったその躯(からだ)は、ふわりと軽く、けれどどこか芯のようなものを感じさせる、不思議な感触だった。


「……おかえりなさい」


そう囁かれた瞬間、視界の奥で“過去の風景”がちらついた。


煤けた祠。泣きじゃくる幼い自分。髪を切り落とす祖母の姿。


そして、土塀の裏手、あの社の前で――


“誰か”が焚いた火の音。


「っ……!」


脳が沸騰するような感覚とともに、俺は少女を突き飛ばしていた。


少女は抵抗するでもなく、ぽすんと地面に倒れた。そして、少し驚いたように目を見開いたあと、また微笑んだ。


「忘れてしまってたのね……全部、私のことも」


「……誰なんだ、お前」


声が震えていた。自分でも気づかないうちに、恐怖に取り憑かれていたのだと思う。


少女は立ち上がり、祠の奥へとゆっくり歩いていった。


「“カナ”って呼ばれてたわ。あなたがそう名付けたの」


「……俺が?」


「あなたは“二代目の巫子守”だったの。もう十年以上前……この祠に私が封じられた夜」


封じられた、という言葉が引っかかった。


「俺は……そんなこと知らない」


「そう。忘れたままでいた方がよかったのかもしれない。けれど、あなたの祖母が逝った今、次が現れるの。だから、あなたが“戻された”の」


カナは振り返り、祠の正面にある円状の焚き火跡を指さした。


「あそこは“迎火”の場所」


「むかえび……?」


「“私たち”は、あの火が焚かれたとき、こちら側に戻ってこられるの。土塀の外からではなく、“中”にある火でなければだめ」


「誰が、戻ってくる?」


「巫子様。そして、わたし。……それから、“まだ外に出られない者たち”」


ぞわり、と背中に冷たいものが這った。


それ以上は聞けなかった。


気づけば、俺は祠の前から逃げるようにして走っていた。


蔵を抜けて屋敷に戻ると、母が玄関で立っていた。表情は穏やかだったが、どこか“見られていた”ような気がして、背筋が凍った。


「……どこ行ってたん?」


「蔵に……ちょっと」


「……そう」


それだけ言って、母は背を向けた。


翌朝、目が覚めると、家の空気が一変していた。


仏間の奥で、父と伯父が低い声で話している。話の合間に聞こえた言葉――「迎火」「火種がもうない」「三日後に間に合うか」――など、意味不明な単語が飛び交っていた。


廊下を歩いていると、何度も何度も「カサ、カサ」という音が聞こえた。


障子の向こうに、誰かが立っている気配。


土塀の向こうから、かすかな歌声。


昼過ぎ、買い物に出るという母に付き合って、車で町まで出た。


山を下る途中で、道端に立つ老婆とすれ違った。


杖を突き、ボロをまとった老婆は、俺の方をじっと見つめながら、唇を動かした。


音は聞こえないが、その口の動きは確かにこう言っていた。


「まだ、“迎え”てはならぬ」


心臓が跳ねた。なぜか、恐怖よりも、懐かしさを感じた。


「あれ……」


俺が助手席でぼんやりと振り返っていると、母が何かを感じ取ったのか、


「見た?」


と一言、ぽつりと聞いてきた。


「……うん。誰?」


母は無言のまま運転を続けた。


帰宅すると、蔵の前に小さな台が置かれていた。


木の板でできた台の上に、白い布をかぶせた壺と、何かの小枝で組まれた焚き火台のようなものが置いてある。


その前に正座し、拝んでいる人物がいた。


「……伯母さん?」


それは、母の姉で、普段は大阪に住んでいるはずの伯母だった。


「“種火”をつないでるんよ」


伯母は目を閉じたままそう言った。


「ここに、“火種”を置いとくん。巫子様のために」


「巫子様って……何なん?」


伯母は目を開け、ゆっくりと俺を見た。


「……カナ、に会うたんやね?」


俺は言葉が出なかった。


その夜、夢を見た。


あの祠の前で、炎の中に佇むカナ。


髪を燃やされ、両目を縫われた姿。


それでも口元には微笑みを浮かべ、俺に何かを訴えていた。


目が覚めると、背中が汗でびっしょりだった。


三日後。祖母の四十九日を待たずして、「屋敷内の火祭」が開かれることになった。


形式上は「送り火」という形を取っていたが、親戚筋だけで執り行われ、村の他の住人は一切関与しない、密やかな儀式だった。


その晩、俺は家族から白装束を渡された。


「着てほしい。あんたが、継ぎ手やから」


「……継ぎ手?」


「巫子守や」


母は、迷いのない目でそう言った。


火祭の夜、土塀の裏手――例の隠し通路に、全員で向かった。


俺、母、伯母、父、そしてもう一人、見覚えのない老婆。


老婆は、かつて祠の巫子守を務めていた人物で、「火渡しの証人」として、最後の役割を担っているのだという。


祠の前に着くと、焚き火台に火が灯された。


その瞬間、あたりの空気が変わった。


風が止まり、虫の声が消え、代わりに“誰かのすすり泣き”のような音が空間に満ちていった。


カナが現れたのは、ちょうどその時だった。


白い服をまとい、裸足で、炎の中を歩いてくる。


目は縫われたまま。それでも、俺の名を呼ぶように、口を開ける。


「……あなた、なの?」


「カナ……」


「……思い出したの?」


俺は言葉に詰まった。


本当は何も思い出してなどいなかった。


けれど、なぜか涙がこぼれて止まらなかった。


伯母が、俺の手に木の棒を握らせた。


「火を渡しなさい」


「……火を?」


「カナに。そして、あちらに行く者たちに」


俺は迷った。


渡してはいけない。


でも、渡さなければならない。


それが、「迎火」。


俺は炎に棒を突っ込んだ。


燃え上がる炎の先端が、真っ赤になったとき、俺はカナにそれを差し出した。


カナはその炎を受け取り、祠の奥へと静かに消えていった。


その瞬間、地響きのような音がして、足元の土が脈打つのを感じた。


俺は本能的に理解した。


“向こう側の扉”が開いたのだ、と。


それから、今に至るまで、カナは二度と現れていない。


伯母は火祭の翌年に亡くなり、屋敷は取り壊された。


土塀の裏手にあった通路も、祠も、跡形もなくなった。


けれど、俺の中には、今もあの火のぬくもりが残っている。


あれが「過去」なのか「異界」なのか、「現実」なのか「夢」なのか。

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