回廊の巫子

洒落にならないほど恐怖する話

第1話 土塀の向こう側

これは今から15年前、俺がまだ大学2年の頃の話だ。

実家は京都府北部の山間にある、小さな集落にある。名前は伏せるが、人口は当時で300人ほど。最寄駅からバスで一時間、その終点からさらに車で15分という、完全な「谷の底」にあった。


俺の祖母が病気で倒れたと連絡があり、当時京都市内で一人暮らしをしていた俺は、夏休みを使って実家に帰ることにした。祖母は昔から体が弱く、何度も倒れては復活する人だったので、家族も「今回も大丈夫やろ」と楽観していた。


到着してみると、祖母は確かに弱ってはいたが、会話もできるし、俺が来たことを喜んでくれた。「あんたの顔見られてよかったわ」と、涙を浮かべていた。


俺が育った家は、江戸時代から続く古い庄屋屋敷だった。木造平屋建ての主屋と、離れ、それにL字に囲うように築かれた土塀と蔵。家の周囲には高い杉が囲み、昼間でも日が差しにくい。子供の頃は、この屋敷が怖くてたまらなかった。


到着した翌日、母が「蔵の整理手伝ってくれる?」と頼んできた。祖母が倒れる前、長年手を付けてなかった二階部分の荷物を動かしたらしい。蔵の階段は急で、母ひとりでは危ないというのだ。


昼過ぎに、俺と母で蔵に入った。埃っぽい空気の中、古びた農具や木箱が並んでいた。懐かしいなと思いながら、奥の方の箪笥を動かしていた時、妙なものを見つけた。木の引き戸の裏に、もうひとつ小さな隠し扉があったのだ。


「なんやこれ……」


母も初めて見たらしく、「開けてみようか?」と少し興奮した様子だった。俺が慎重に扉を引くと、その向こうには、土塀の外に続く狭い通路があった。


驚いた。蔵は屋敷の一番奥、土塀にぴったり接して建っているはずなのに、その向こうに人ひとりがやっと通れるほどの石畳の通路が続いていた。


「……外?」


「……ありえへんな。土塀の外に、こんなんなかったやろ」


俺と母は顔を見合わせた。子供の頃、裏手の土塀は崖に面していて、そこに通路などなかったはずだ。もしあったなら、誰もが知っている。何より、その「通路」は内側にしか見えないのだ。外からは崖、内側からだけ見える。


「おばあちゃんに聞いてみよか」と言って、その日は扉を閉じた。


祖母に聞くと、顔色が変わった。


「そこは……入ったらあかん」


「なんで?」


「“巫子様”の道や。あんたらには関係あらへん」


それだけ言うと、祖母は口を閉ざした。


俺はその夜、寝付きが悪くなった。


子供の頃の記憶が次々と蘇ってくる。蔵の裏手で「誰かが歩いている音を聞いた」と言った同級生、夜中に蔵を指さして泣いていた妹、土塀の前に小石がきれいに積まれていた不気味な朝――。


翌日、どうしても気になって、ひとりで蔵に向かった。母は出かけていて、家には俺と寝ている祖母だけだった。


隠し扉を開け、通路に足を踏み入れた。まるで別世界のように静かだった。蝉の鳴き声が、通路に入った途端に聞こえなくなったのだ。


通路は苔むしていたが、足跡のような窪みが続いていた。10メートルほど進むと、唐突に開けた空間に出た。


そこには、小さな社(やしろ)があった。


朽ちた鳥居、石段、祠。祠の前には何かを焼いたような跡があり、黒い灰が円を描いていた。


俺がぼんやりと見ていると、祠の奥から「カラ、カラ」と鈴のような音が聞こえてきた。


思わず後ずさった。


そのとき、突然背後から声がした。


「――誰?」


驚いて振り返ると、白い服を着た少女が立っていた。高校生くらいに見えるが、顔立ちは現代のそれとは少し違って見えた。目が合った瞬間、彼女はふっと微笑んだ。


「戻ったんだね」


「え……?」


「また来てくれて、嬉しい」


意味がわからなかった。俺は「ごめん、ここ、入っちゃまずかった?」と聞いた。少女は首を振った。


「あなたは“巫子守(みこもり)”だから、大丈夫」


その言葉に、俺は思わず立ちすくんだ。巫子守? 聞いたこともない言葉だった。


少女は近づいてきて、俺の手をそっと取った。冷たく、けれど生温い手だった。


「ねえ、覚えてる? あなた、前にここで――」


彼女の声が途切れたその瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。


気づくと、俺は祠の中にいた。立ったまま気を失っていたらしい。あたりはすでに夕暮れだった。あの少女の姿はどこにもなかった。


慌てて帰宅すると、玄関に母と近所の人が集まっていた。


「どこ行っとったん!? 心配して探してたんやで!」


時計を見ると、もう夜の八時を過ぎていた。通路に入ったのは、昼の二時ごろだったはずだ。4時間以上、俺は消えていたことになる。


母に問い詰められたが、「裏で寝てた」と誤魔化した。


だがその晩、祖母が再び倒れた。意識はあったが、言葉を繰り返すばかりで要領を得なかった。俺を見るたびに「帰ってきたんやな……あんた……」と泣きそうな声でつぶやいた。


翌日、祖母は亡くなった。


通夜の晩、母がそっと語ってくれた。


「おばあちゃんな、昔、“巫子守”やったんやて」


「巫子守?」


「昔はな、“巫子様”いう存在を祀っとって、定期的に“見守る者”が必要やったんやて。土塀の裏は、巫子様の“還る道”や言うてた」


「……それって、人じゃないん?」


母は静かに頷いた。


通夜の夜中、俺は再びあの隠し扉を開けた。


少女の言葉がどうしても気になった。


「また来てくれて、嬉しい」


俺は知らぬ間に、何かに“選ばれていた”のかもしれない。


暗い通路を進むと、またあの社に出た。祠の前には、誰かが立っていた。


――あの少女だった。


今度は、泣いていた。


「……おかえりなさい」


少女はそう言って、俺に抱きついてきた。


その瞬間、脳の奥に焼き付くような“記憶”が蘇った。


俺はここで、かつて――

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