Section_1_3c「誰か、気づいてくれるでしょうか」
## 5
「参りましたね」
航が率直に状況を受け入れている。一方で私は、まだ現実を受け入れられずにいた。
閉じ込められた。
中村航と、二人きりで。
「誰か、気づいてくれるでしょうか」
「どうでしょう……夜警の方が巡回に来るかもしれませんが、それまでけっこう時間がかかりそうです」
夜警の巡回。それまでどのくらい待てばいいんだろう。
「すみません、僕が時間を確認していれば……」
「いえ、私もです。委員長なのに、確認不足でした」
お互いに謝り合っても、状況は変わらない。
「とりあえず、座りましょうか」
航が提案してくれる。確かに、立ったままでいても仕方ない。
図書室の奥にある閲覧席に座る。いつもなら生徒たちで賑わっている場所も、今は静まり返っている。
夕日が窓から差し込んで、机の上に長い影を作っている。
「なんだか、不思議な感じですね」
「不思議?」
「誰もいない図書室って、初めてです」
確かに、こんなに静かな図書室は初めてだった。いつもは多少なりとも物音がするのに、今は本当に無音に近い。
「でも、悪くないですね」
航が意外なことを言った。
「悪くない?」
「はい。こういう静けさも、たまにはいいかなって」
静けさ。
確かに、この静寂は心地良い。外の世界から切り離されたような、特別な空間になっている。
「航くんは、静かな場所が好きなんですね」
「はい。昔から、騒がしいのは苦手で」
「だから図書室によくいるんですか?」
「それもありますし……」
航が少し言いよどむ。
「あと、本に囲まれていると落ち着くんです」
本に囲まれていると落ち着く。
その気持ち、すごくわかる。
「私もです。図書室にいると、なんだか安心します」
「安心?」
「はい。本は裏切らないし、急かさないし……自分のペースで向き合えるから」
本は裏切らない。
そう言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。まるで人間関係に疲れているみたいな言い方だ。
でも、航は理解してくれているような顔をしていた。
「わかります。本との関係は、人との関係より単純ですよね」
「単純」
「言葉が悪いかもしれませんが……本は、僕たちに何かを求めたりしない。ただ、そこにあるだけで」
ただ、そこにあるだけ。
なんて優しい表現だろう。
「でも」
航が続ける。
「時々、人との関係も大切だなって思うんです」
人との関係。
「どういう時ですか?」
「例えば……今日みたいに、同じ本について語り合えるとき」
私の心臓が、また早鐘を打ち始める。
「一人で本を読むのも楽しいけれど、誰かと感想を分かち合うのは、また違った楽しさがありますね」
誰かと感想を分かち合う。
それは私にとっても、新しい体験だった。
## 6
「私、今まで本の感想を人と話したことがあまりなくて」
思わず本音を言ってしまう。
「そうなんですか?」
「はい。読書って、すごく個人的なことだと思ってたから」
「個人的」
「同じ本を読んでも、感じることは人それぞれですよね。だから、自分の感想を人に話すのは、なんだか恥ずかしくて」
恥ずかしい。
でも、航と話していると、その恥ずかしさが薄れていく。
「僕もそうでした。でも、綾瀬さんと話していると……」
「していると?」
「自分の感想を話すのが、楽しいと思えるんです」
楽しいと思える。
その言葉に、胸が暖かくなる。
「私もです。航くんとなら、安心して話せます」
「安心……ですか?」
「はい。航くんは、私の感想を否定したりしないから」
否定しない。
そう言いながら、これまでの会話を思い返していた。確かに航は、私の意見に対していつも理解を示してくれる。
「綾瀬さんの感想は、いつも新鮮で興味深いです」
「そんなことないですよ」
「本当です。僕には思いつかない視点で本を読んでいて……すごいなって思います」
すごい。
また心臓がドキドキする。褒められることに慣れていない私は、どう反応していいかわからない。
「ありがとうございます……」
「こちらこそ、こんなに本について話せて嬉しいです」
嬉しい。
航も嬉しいと言ってくれている。
夕日が少しずつ傾いて、図書室の中がオレンジ色に染まっていく。いつもなら帰宅ラッシュの時間だけれど、ここには私たちしかいない。
「なんだか、時が止まったみたいですね」
航がぽつりと言った。
「時が止まった?」
「外の世界から切り離されて、僕たちだけの時間があるような……」
僕たちだけの時間。
その言葉に、なぜか胸がきゅっとした。
「そうですね」
私も小さく答える。
確かに、今この瞬間は特別な気がする。誰にも邪魔されず、航と向き合っていられる時間。
こんな偶然があるなんて、思いもしなかった。
でも、もしかしたら——
偶然じゃないのかもしれない。
何かが、私たちをここに導いたのかもしれない。
そんなことを考えていると、遠くから足音が聞こえてきた。
「あ……」
どうやら、誰かが図書室に来てくれたようだ。
嬉しいような、でも少し寂しいような。
複雑な気持ちで、私たちは救助を待った。
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