32怖目 『間引き絵馬 ―後編―』
その夜。
出された精進料理を食べ終えた私は、客間の畳に敷かれた布団に身を沈めた。
取材メモをまとめながらも、頭から離れないものがあった。
あの絵馬。あの女。
逸らされた視線。固く結ばれた唇。添えられた手。
どれほどの力で、あの小さな顔を押しつぶしたのか。
目を閉じようとするたび、その実際の光景が、宙に浮かぶように見えた。気持ち悪い。
――“ぎ……あ……”
ふいに耳の奥で、何かが軋むような音がした。
古い木造の建物だ。音くらい、する。
自分にそう言い聞かせる。だが次の瞬間――
――“ぎゃあ……ぎああああ……”
赤子の、泣き声。
空耳ではない。確かに、どこかで――誰かが泣いていた。
私はまた苛立ち、布団からそっと起き上がると、廊下へ出る。
奥へと続く回廊。薄暗いその先から、泣き声が漏れている。
“ぎゃああああ……ぎゃああああ……”
私は壁伝いに、暗い廊下を進んだ。足元の床板が軋むたび、肌に冷たいものが這う。
暗がりに目を凝らしながら、声のする方へ足を進める。
本堂へと続く障子の前に辿り着いた瞬間、泣き声は一段と激しくなった。
そっと戸を開ける。
闇の中に、白い女の背が見えた。
堂内、奥の壁に飾られた絵馬の下、まさにその真下の場所に、女は膝をつき、うつむいていた。
女は無言で、ひたすら赤子を押さえつけていた。腕の中で、もがき暴れる赤子。
狂ったように、執拗に、そして一心不乱に。指が食い込み、赤子の小さな腕が震え、絶望のような悲鳴が堂内に響く。
女の髪は乱れ、痩せた背中は皮膚を通して肋骨の線が見えた。
痩せこけた身体が、欲と飢えと、悔恨と憎悪で歪んでいた。まるで、飢えと、悔恨と、呪いが、一つの人間を食いつぶしたような姿。
何度も。何度も。何度も――何度も。
狂ったように、だが執念深く。赤子を押さえ付けて殺そうとしていた。
そして――
女の影。照明灯の光に映るその影からは、二本の角が伸びていた。
その姿は、まぎれもない、鬼女の姿だった。
「……見てしまいましたか」
背後から声がして、私は思わず振り返った。
そこに住職が、静かに立っていた。
「――あの絵馬がこの寺に納められて以来、夜な夜な、あの親子が現れるのです。毎晩繰り返し、母は子を殺し続け、子は泣き続けるのです」
住職は本堂に歩み寄ると、女の背に向かって手を合わせ、念仏を唱え始めた。
低く、確かな祈りの声が堂内に響く。
すると、赤子の泣き声は次第に遠のき、女の姿は、煙のように揺れ、やがて消えた。
すべてが消えると、本堂はしんと静まり返った。
照明灯だけが、今も淡く、怪しく、堂内を照らしていた。
「……あれが、まだ子を殺め続ける“念”なのか。それとも、絵馬に染み込んだ“記憶”なのか……私にも分かりません。ただ、あの悲しみが、いつか癒えるよう、私はこうして手を合わせているのです」
住職は、合掌したまま目を閉じていた。
*
翌朝、私は住職に礼を言い、寺を後にした。
自宅のアパートに戻ったのは、夜遅く。
荷解きもそこそこに、ノートパソコンを開き、記事の草稿を始めた。
昨夜の気持ち悪い出来事を書くつもりはない。最初から、そのつもりはなかった。
ただ――
あの赤子の泣き声が、どうしても耳から離れなかった。
あの、息の詰まるような声が、頭の奥を掻きむしってくる。気持ち悪い。
強くノートを閉めた。
――だめだ。集中できない。
部屋の中が、臭う。
たった一晩、留守にしただけなのに、部屋にはすでに嫌な臭いが染みついていた。気持ち悪い。
私は消臭スプレーを手に取り、部屋中に噴きかけた。
バッグにPCを放り込み、部屋着のまま玄関のドアを開ける。
「……今夜は、友達の家に泊めてもらおう」
明日はそのまま職場に直行すればいい。
この部屋に戻る理由なんて、もうない。
消臭スプレーも買い足そう。乾燥剤に、アルコールスプレーも良いと聞いた。
いっそ、空気清浄機でも買って――
――“ぎゃあああああ……ぎゃあああああ……”
背後の部屋の奥から、赤子の泣き声が響いた。
だが、私は振り返らない。
歩く。速足で、夜の街へ。
あの気持ちの悪い絵馬のせいだ。私に余計なことを思い出させた。せっかく静かになったと思っていたのに。今度はあんな臭いまで放つようになった。もう川にでも捨てようかな。たった一度、彼とヤッただけなのに。ああ、面倒くさい。気持ち悪い。
私はただ、まっすぐ前だけを見て、歩き続けた。
――ぎゃあああああ……ぎゃあああああ……
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