2怖目 『あめふりのうた』


 6月も中盤に差し掛かり、ザーザーと夏に向けた雨がアスファルトを激しく濡らす。


 私は昔から雨が嫌いだった――特に、夏の雨が。


 じっとりと肌にまとわり付くような不快な空気。下がった気圧によってもたらされる頭痛――そして、この気持ちの悪い、カビの匂いが混じったような、生臭い雨の匂い。


 ――雨が好きな人の気が知れない。


 そう思いながらトボトボと歩いていると、ふいに人の声が聞こえてきた気がした。

 

 耳を澄ます。


 『――めふれ――んが』


 微かだが、それは確かに人の声だった。


 なんとなく声が気になった私は、その音のする場所へ歩みを向けた。


 『――めふれ――あさんがー』


 声のする場所が近付いて来ると、それに伴って声も鮮明になってくる。


 高い声だった。おそらく子供だろう。

 

 『じゃのめで――むーかえ――しいなー』


 まだ途切れているが、間違いなく子供が歌を歌っている。これは『あめふり』の歌だ。


 目的地に着いた。そこは公園だった。


 雨が激しく降り注ぐ公園。こんな日に、びしゃびしゃに濡れた遊具で遊ぶ子供は当然いるはずが、なかった……はずだった。


 激しい雨で白く濁った景色によく目を凝らすと、狭い公園の中央。水捌けの悪い、ぐちゃぐちゃになった砂地の地面の上で、一人の子供が傘も差さず、レインコートも着ず、佇んでいた。


 『あーめあーめふーれふーれかあさんがー』


 たった一人で、子供が『あめふり』を歌っている。


 ――こんな雨の中一人で? 傘も差さずに?


 私はいつの間にか、誘われるように公園に足を踏み入れていた。

 

 恐る恐る。しかし確実に、私は背中を向けて歌うその子の元へと近付いていく。


 一歩踏み出すたび、湿った空気の中に妙な匂いが混ざり始めた。


 雨の匂いに交じって、鉄のような、濡れた古布のような――そんな何かの腐ったような臭いが鼻をつく。


 その子との距離があと数歩というところで、私はその子が泣いていることに気が付いた。


 間違いない。背中を向けているが、その歌は上擦っており、泣きながら歌っていることがわかる。


 もしかしたら、この子は親と喧嘩でもして、傘も持たずに家を飛び出してきたのかも知れない。そして、その寂しさを紛らわすために歌っているのだろう。


 もしそうなら、今頃親が必死になって探しているのかもしれない。


 なにより、こんな雨の中ずぶ濡れの子供を放っておくわけにもいかなかった。


 「ねぇ、きみ、大丈夫?」


 後ろから声をかけた。


 『あーめあーめふーれふーれ』


 しかし、雨の音と自身の歌のせいか話しかけられたことに気付いていないようだ。


 私はもう目の鼻の先というくらいまで、さらにその子に近付くと、また声をかけた。


 「きみ、大丈夫? お父さんかお母さんはいるの?」


 ピタッと歌声が止んだ。

 

 子供は首を横に振った。


 ――ああ、やっぱり迷子か。


 「お家はわかる? お姉ちゃんと一緒にきみのお家まで行こ?」


 口にした後、しまったと思った。これでは誘拐犯だと間違われても仕方がない。この子を余計に怖がらせてしまったかもしれない。


 しかし、私の不安は的中することはなかった。


 『あーめあーめふーれふーれ』


 また子供は歌い出す。


 その行動に、苛ついた感情が込み上げてきた。ただでさえ、この雨で機嫌が悪いというのに。


 声をかけたのは私だが、正直に言って、このままさっさと家に帰りたかった。


 「お母さん、もう行っちゃうよ」


 感情に任せて、咄嗟にそんな言葉が口から出ていた。


 だが、またピタッと子供の歌が止んだ。


 『お母さんなの?』


 ようやく子供が歌以外の言葉を口から発した。雨の音でその声はかき消されそうだったが、背中を向けて歌っていたその子供は、確かにそう言った。


 「そうだよ、お母さん、もう知らないよ!」


 流石に今の言い方はキツかったか。そもそも、私はこの子の親でもなんでもないのに。


 そう思った矢先、子供はクルッと振り向いた、こちらに顔を向けた。


 「ヒッ――」


 自分の喉から、小さな悲鳴が漏れた。


 振り向いたその子には、目がなかった。


 本来、目があるはずの場所は、ポッカリと穴が空いており、空洞になったその場所は真っ黒だった。しかし、そこからまるで降り注ぐ雨のようにドス黒い涙を流していて、伝った頬には痣のような涙の跡が痛々しくできていた。


 『あぁぁぁめあぁぁぁめふぅぅぅれふぅぅぅれ』


 子供は歌い出す。泣きじゃくりながら。ドス黒い涙を流しながら。大きな口を開けながら。


 私は後ずさるが、思うように体が動かず、ようやく少しだけ足を動かせても、濡れた砂地にグニュリと足を取られて、うまく後退することはできない。


 『かぁぁぁさぁぁぁんがぁぁぁ』


 子供が、顔だけこちらに向けながら、凄い力で私の体にガシリとしがみつく。


 まるでカビたような、生臭い雨の匂いが鼻に付く。


 いや、それはもう「匂い」ではなく、「瘴気」と呼ぶべきものだった。


 鼻だけでなく喉の奥まで侵食してくるような、重くまとわりつく匂い――思わず嗚咽しそうになる。


 『じゃぁぁぁのめぇぇぇでおむかぁぁぁえ』


 振り解けない。声が出ない。体が動かない。歌が、脳の奥まで響く。


 『うぅぅぅれぇぇぇしぃぃぃぃなぁぁぁぁぁぁ』




 

 それから先のことはよく覚えていない。


 気付いたら、私は自分の家にいて、激しく降る雨を窓から気が抜けたように見つめていた。


 あの子供はなんだったんだろうか。雨が降るたびに私はあの子のことを思い出す。


 あの、生臭くて、どこか懐かしいような、それでいて絶対に忘れたくない匂い。

鼻の奥にこびりついたまま、今も消えずに残っている。


 私は雨が嫌いだった。でもそれはもう過去の話。


 私は今日も傘を持たずに表に出る。雨の匂いを吸い込むと、あの歌が自然と口をついて出ていた。


 ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ らんらんらん♪

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