第14話:瞬殺と血の飛沫

 ――遅すぎた。


 彼の横の空気が裂けた。


 飛び散る血――温かく、濃く、ねばつく――が彼の顔に降りかかる。


(温かい……! 血だ!)


 鉄の悪臭が鼻孔びこうを衝いた。圧倒的だ。熱。赤が一瞬、視界を覆った。


(爪――当たった――)


 彼は痛みに備えた。だが痛みは来なかった。


 その代わり、背後から生々しい肉を引き裂く音が響いた。グシャリと。続いて詰まった濁ったうめき。喉の奥から泡立つようなうめき声。洞窟の低い地鳴りのような唸りを切り裂く、恐ろしい湿った泡立つ音。


「いやああああっ!」


 ライラの悲鳴。生々しい。信じられない。湿った石に反響し、突然の恐ろしい沈黙を引き裂いた。


 アーレンは振り向きざま、目から血糊ちのりを拭った。


(自分の血か? ライラの血か?)

(違う。エララの。)


 その温かさは不気味なほど肌に馴染む。だがその感触とは裏腹に、腹の底から空洞のような冷たさが込み上げてきた。


 エララ。彼女の喉。――――。


 引き裂かれた肉のめちゃくちゃな塊。きらめく軟骨なんこつ。キールの揺れる松明の光が骨に当たった所で、椎骨ついこつが湿って輝いている。


 彼女の手。あの繊細な癒しの手が、もはや存在しない喉を求め、むなしく宙を掻いていた。


 血が脈打った。おぞましく。濃い暗い塊で洞窟の床に命を汲み出していく――


 彼女の目。常は落ち着き、理知的りちてきな光を宿やどしていたその目が彼を見つけた。


(いや……その目……やめろ、そんな目で俺を見るな……!)


 助けを求める無言の叫び。その中の光が消えて死ぬ前に、彼の記憶に焼き付けられた。


 それから彼女の膝が崩れ、体は捨てられた布のように崩れ落ちた。手足があり得ない角度に折れ曲がる。音もなく、ただ……命が消えた。


(速すぎる……動くのさえ見えなかった……女神め、エララ……俺……)


 アーレンの手――彼女の血でぬるぬるしていない方――が剣の柄を掴んだ。生の衝撃に、アーレンは一度だけ聖蝕せいしょくの震えを忘れた。激情げきじょうが血管を駆け巡る。寒さを麻痺まひさせる。恐怖を麻痺まひさせる。ほとんど。


 キールの声は最初は信じられないというように、か細くささやかれた。


「エララ……?」


 彼の視線が彼女の喉があったはずの血まみれの虚無に吸い寄せられた時、彼の中で何かがぷつりと切れた。


「う……あああああああああああっ!」


 その声は言葉にならず、喉の奥から引き裂かれるような純粋な苦痛と怒りの咆哮ほうこうへと変わった。彼の目が狂ったようにアーレンを求めた。


「アーレン! 何とかしろ! 頼む、彼女を……!」


 だが助けなどないという絶望か、魔族の冷たい視線が彼を捉えたからか、その懇願こんがん呪詛じゅそへと変わった。


「嘘だ……エララ! 目を開けろ! この……この化け物がっ!」


 彼は剣を上げた。手は激しく震えている。汗でべったり濡れた顔に、そしてエララの血。


(もう限界だ……キールが壊れる……)


 エララが崩れ落ちた瞬間、紫の目をした人外じんがいの姿がぶれた。そのうろこの尾――先端に黒曜石のように鋭い何かを備えた暗い筋肉のむち――が空気を切り裂く。アーレンをぐように振るわれた尾がシューと音を立てた。


 あの目。あの忌々いまいましい紫の目。彼に狙いを定めている。冷徹れいてつに新たな獲物を値踏ねぶみする捕食者の眼差しだった。


 彼女魔族の獲物。

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