第09話:雪とそびえる黒崖

 三日目。さらに寒い。空気が変わった。肌を刺すような鋭さが増し、息を吸うたび、雪の到来を予感させた。


 彼らが惨めな野営を解いた直後、はらはらと、軽い雪が舞い落ちてきた。白い斑点はんてんが肩に静かに落ち、擦り切れた羊毛の上で即座に溶けていく。灰色の風景が、薄い純白のとばりで静かに包まれ、すべての音を殺していくようだった。


聖蝕せいしょくに喰われろ、このクソみたいな雪が……!よりにもよって今かよ!)


 アーレンはマントをきつく引いた。湿った冷気が、すでに内側まで染み込んでいる。


「この天気が本格化する前に目的地に着く必要がある」


 ボーリンが彼の横でつぶやいた。彼の息は凍った空気の中で濃い霧となり、声は切迫感せっぱくかんを帯びていた。


(彼は正しい。ここで吹雪に捕まったら……俺たちは死ぬ)


 渦巻く雪と霧を通して、前方に暗い崖が迫り始めていた。巨大で、威圧的いあつてきだった。切り立った岩壁が何百尺もそびえ立ち、その頂は忘れられた巨人の胸壁きょうへきのように、雪雲の中へと消えている。


 アーレンの地図が指し示す場所。これらの崖のふもとにある、岩だらけの一帯。そこが、彼らの目指す一帯だった。


(ここか……。あの噂の、巡回隊も避けるという場所は)


 アーレンは停止を合図し、新しい氷で覆われたギザギザの岩陰に身を隠した。彼は見上げた。巨大な崖面に弱い日光が差しても、その黒い表面は光を反射することなく、ただ圧迫するような影を落とすだけだった。


 その時、かすかで低い震えが、ブーツの底から岩盤がんばんを通して直接響いてきた。


(女神め、これは何だ……?)


 それは音というより、骨の芯に直接響く、不気味な震えのように感じられた。まるで何かの前触まえぶれのように、空気が重く、ぴりぴりと肌を刺すようだ。鼓膜こまくが内から圧される。深い水中にいるかのように、じわりと圧が増してくる。


「ボーリン」


 アーレンは言った。声は低く、風が止んだ突然の静寂にほとんど飲み込まれそうだ。


「先行しろ。崖の根元を調べろ。地面の異常、妙な気配、方位磁石ほういじしゃくはどうか。些細ささいなことでも見逃すな」


 アーレンは、ボーリンがベルトから外した磨かれた真鍮しんちゅう磁針盤じしんばんに目をやった。それは斥候せっこう時代から使い続けている年代物で、よほどの力でもなければ決して狂うことのない信頼のおける代物だ。


(今さら、何がおかしくても同じことか……)


 ボーリンは一度うなずき、他の者たちに値踏みするような一瞥を向けた。それから渦巻く霧の中に、灰色の亡霊ぼうれいのように消えた。危険な足場にもかかわらず、彼はまったく音を立てずに動いた。


(奴なら、道を見つける。あるいは、厄介事の方を先に見つける。どっちにしろ、任せるしかねえ)


 アーレンは待った。辺りは静まり返り、降る雪の柔らかく容赦ない音と、近くのキールの不安な身じろぎだけが聞こえる。


 キールの息は、速く神経質な噴出となって霧に変わった。アーレンの左手の震えが戻っていた。指先のかすかだが、しつこい震え。寒さと、前方にある「何か」への近さによってひどくなっている。


 彼は手袋の中で拳を握り、それを静めようとした。無駄だった。


(この聖蝕め……この寒さめ……!そして、こんなクソみたいな欠片を世界中にばら撒いた神々めが……!)


 彼はボーリンが消えた場所を、ただ見つめた。待ちながら。崖が、静かに、何かをさばくかのように迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る