第07話:泥濘への出発と汚染の兆し

 夜明け前の冷気が、砦の石に染み込んでいた。湿った、骨まで染みるような寒さが、これからの苦難くなんを予感させる。

 東門の下、薄暗い灰色の光の中に、五つの人影が集まっていた。空には、あざのような色の雲が垂れ込めている。風がマントのすそをはためかせ、砦の淀んだ息——酸えたエールと湿った寝具、そして拭い去れない貧しさの臭い——を狭い路地から運び出していた。


 門が、唸りながら開く。抗議するような蝶番ちょうつがいの音。まるで、死にかけた獣のうめき声だ。冷たく湿った空気が流れ込み、湿った土と「遠さ」の匂いを運んできた。

 アーレンは中央に立ち、前夜の重み、任務、そして減り続ける蝕止しょくどめの袋が肩に重くのしかかっていた。彼の視線は、仲間一人一人を見渡す。


 ボーリンはすでに門の外にいた。薄闇を背にした、岩のように堅固けんごな人影となり、本能的な警戒心で泥だらけの道の向こうをうかがっている。アーレンはギルドが提供した複写地図を彼に渡した。二人の間に言葉はいらない。


 キールは足を交互に動かし、手を丸めて息を吹きかけ、腰の剣をやや大げさな動作で調整していた。


 キールは静寂に耐えかねたように、いつもの虚勢きょせいを張って口を開いた。


「まあ、心配すんなって、エララ。この俺がいるんだ、ちょいと散歩して、約束の酒でもおごってやるさ。なあ?」

 エララは、医療袋の確認から顔を上げなかった。その声は、まるで埃を吸ったかのように乾いていた。


「前に言ったはずよ、キール。私は泳げない男に興味はない、と」


 その言葉に、門の横の石にもたれていたライラが、短く鋭い笑い声を上げた。楽しむというより、侮蔑ぶべつに近い音だ。


「はっ!なんだお前、カナヅチだったのか。……ちっ、先に知ってりゃ、とっくにどっかの小川にでも突き落としてやったのによ」


 キールは顔を赤くして口ごもったが、エララの視線がアーレンの手袋をした左手に向けられたことに気づかなかった。彼女は何も言わず、ただ袋をしっかりと固定した。


(彼女はわかっている。震えがひどい時も、蝕止めの金が足りない時も……どっちも、同じことだ)


 アーレンは、ほとんど知覚ちかくできないほどうなずいた。出発の合図だ。


 * * *


 五つの人影が、砦の圧迫するような影から滑り出る。泥だらけの道へ、足を踏み出した。濃く、まとわりつく泥。ブーツに吸い付き、一歩ごとに体温を奪っていく。


(……結局、壁のないでかい牢獄に来ただけか。壁が飢えで、鉄格子がこの風だ。くだらねえ)


 道が急に下る区間に達した。濁った雨水の広い水たまりが広がり、中央は膝まで深さがある。アーレンとボーリンは端を偵察し、諦めて渡った。冷たさがすぐに革越しに突き刺さる。

 ライラは嫌悪けんおを隠さずに続いた。エララはスカートを高く上げ、少し躊躇ちゅうちょしてから慎重に足を踏み入れた。


 だが、キールはぴたりと足を止めた。その顔から血の気が引いている。


「女神め、あの泥を見ろよ」


 彼はつぶやいた。声が上擦うわずっている。キールは茶色い水を覗き込んだ。まるで泥の中から何かが飛び出してくるのを、本気で警戒しているかのようだった。


「ひどい有様だ。たぶん……回り道があるんじゃないか?」


 半分渡ったライラが、鼻で笑って振り返った。


「ぐずぐずしてると、本物の化け物に足首を食われるぞ。さっさと渡れ、坊や」


 キールは唾を飲み、神経質に目を動かす。恐る恐る一歩踏み入れると、凍るような水がブーツに流れ込み、鋭く息を吸って後ずさった。目に見えて震えている。


「おい、キール」


 アーレンは、感情を一切殺した声で呼びかけた。


「端を通れ。そっちのほうが浅い」

 キールは最終的に自分を奮い立たせて渡りきった。歯をガチガチ鳴らし、水から出るまで悪態あくたいをつき続けていた。

 その直後、彼らはそれを見た。道の脇に横たわる、小さな棘山羊とげやぎ。死んでまだ一日も経っていないだろう。

 エララは治癒師の本能でしゃがみ込んだが、慎重な距離は保った。


「間違いないわ、聖蝕せいしょくよ。この死に様……あまりに急だわ。源が近くにあるはず」


 アーレンは彼女の横にしゃがみ、違う目で死骸を吟味ぎんみした。


「この痩せ方を見ろ。まだらな毛の抜け方は?腫れた舌、口の周りの染みは?」


 彼は棒で死骸を指し示す。エララは眉をひそめた。


「つまり?」


「この山羊はゆっくり死んだ。数週間、もしかしたら数ヶ月かけてな。汚染された水を飲んだんだ」


 彼は立ち上がり、視線を岩だらけの斜面に向けた。


「微量の聖穢せいえが、上のどこかに埋まる『欠片』から地下水に染み出している。最近の震動で岩が割れ、汚染が悪化したんだろう」


 一行は、しんと静まり返った。エララは困惑したように見えた。


「でも文献では、聖穢に直接身を晒すというのは――」


「文献に載ってるのは、運悪く欠片の真上にでもつまずいた馬鹿の話だ」


 アーレンは、彼女の言葉をさえぎった。


「これは違う。じわじわと体を蝕む、遅効性ちこうせいの毒だ。死体が出るまで誰も気づかねえってのが、一番厄介やっかいなところだ」


 ライラの声は鋭く、低かった。


「触らない方がいい」


 彼女は死骸から目を離さず、値踏みするように言った。


「……ここ、氷を吸ってるみたいに冷たい」


 キールは、目に見えて唾を飲んだ。彼の目は、驚いた鹿のように大きく、死骸を見つめている。


「女神様……」


 彼はささやいた。

 ボーリンが初めて口を開いた。


「もし水が汚染されているなら……」


「水は手持ち分だけだ。この辺の川には手を出すな。いいな?」

 アーレンは順番に一人一人を見た。


「それから、目眩めまい、幻覚、鼻血……どれか一つでも兆候が出たら、即座に言え。隠すな」


 重く、ぞっとするような沈黙が広がった。この土地の水そのものが汚染されている。その気づきが、新たな恐怖となって一行の胸に冷たい染みのように広がっていった。


 * * *


 最初の野営は、みじめの一言に尽きた。山の冷気を滲み出す巨岩の陰に身を寄せ、マントを引き裂くような風からかろうじて身を守る。湿った小枝は頑固がんこに煙を上げるばかりだったが、ボーリンが黙って差し出した乾いた糞とこけのおかげで、弱々しい火が生まれた。


 夕食は陰鬱いんうつだった。木のように硬い乾燥肉と、ぬるい穀物粥こくもつがゆ。誰もが、それぞれの思考の殻に閉じこもっていた。


「なあ、エララ」


 キールが、全員に聞こえるくらいの独り言をつぶやいた。

「俺たちが結婚したら、あんたの作る飯はもうちっと柔らかいといいんだが。こんな石みたいな肉じゃ、愛も冷めちまう」

 エララは、粥をかき混ぜる手も止めずに答えた。その声は、風と同じくらい刺すようだ。


「心配無用よ、キール。あなたは、私の手料理を味わう前に、この干し肉で窒息死ちっそくしするから」


 見張りを設定し、装備を固定する。アーレンは弱い炎を見つめていた。聖蝕が、深まる闇の中で冷たく脈打つ。


 彼の注意を引いたのは、キールの普段と違う静けさだった。彼は少し離れて座り、誇りの剣を音もなく研いでいた。あの特徴的な籠手鍔こてつば――まぎれもなく匠王国たくみおうこく製の名品だ。


 キールの他の粗野そやな装備と比べると場違いなほど上等に見えるが、その暗く磨かれた鋼の籠は、ただの飾りではない、実戦から生まれた高い技術の跡が窺えた。


 ちらつく火の光の中で、キールのたたずまいはまるで別人のようだった。背筋は真っ直ぐに伸び、その表情は、近寄りがたいほどに研ぎ澄まされていた。


 彼は小さく滑らかな砥石といしを持ち、ゆっくりと、寸分の狂いもなく、信じられないほど制御された動きで刃に沿って引いていた。


 石がはがねを擦る規則正しい音は、風の唸りに対して静かで、ほとんど祈りのようにすら聞こえた。一つ一つの動きに無駄がなく、訓練を重ねた者だけが持つ重みがある。


 終わると、同じ細心の注意で刃を拭き、静かにさやへと収めた。キールは顔を上げ、アーレンの目を捉え、火の光の中でわずかに赤くなった。見られたくなかった瞬間を覗かれたかように。


 だがすぐに、いつもの薄笑いで誤魔化した。


「……なんだよ、じろじろ見て」


 アーレンはただ唸り、火に視線を戻した。あの口ばかりの少年が見せた、集中した、訓練された手の光景が、アーレンの脳裏に焼き付いていた。

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