第06話:傷痕の夜と旅立ちの重圧

 夜の闇が、灰色の重い毛布のように砦をゆっくりと覆っていった。その先には、苦い明日が待ち構えている。東の峠への任務は確定した。触れることのできる、恐ろしい現実として。


 アーレンは仲間たちと短く会い、詳細を伝えた。雰囲気は陰鬱いんうつで、いつもの酒場の虚勢きょせいは、危険を前にした重い覚悟に変わっていた。夜明けに出発する。


 その夜遅く、砦が不安な眠りに落ちた頃。きしむ木材、遠い酔った笑い声、壊れたのきを通り抜ける風の音だけが響く静寂の中、ノックの音が、アーレンの部屋のドアを控えめに叩いた。


 急かすでもなく、ただ……そこに在る。まるで、木の扉に心臓が打ち付けられるような音だった。


 彼は動かず、何も言わなかった。誰なのかは、分かっていたから。


(……ライラか。また互いの亡霊を慰め合う夜か。特に、今夜のような夜は)


 ドアがきしみながら開く。彼女が入ってきた。肩をわずかにすぼめ、マントは霧で湿っている。彼女の目の中に、生々しく、失われた何かの閃きが見えた。だがそれは、いつもの鋭い表情の裏に一瞬で消える。


 彼女は何も言わず、背後でドアを静かに閉じた。そして、いつものように、二人の間の空間を渡る。躊躇わず。尋ねず。


 彼女の腕が彼の首に巻きつき、そのキスは激しく、古いエールの味と、何か空虚くうきょなものを感じさせた。朝には出発が迫っている。その事実が、二人の行為をより一層切実せつじつなものにしていた。彼は彼女に導かれ、狭い簡易ベッドに倒れ込んだ。木枠が軋み、重さに抗議した。


 それは、言葉を交わすことのない儀式だった。


 彼女は沈黙のうちに服を脱ぐ。ゆっくりでも、誘惑的でもない。ただ、世界の重圧から逃れるように、一枚また一枚と。彼女の川石の首飾りだけが残り、揺れるたびに、かすかな蝋燭ろうそくの光を反射して、鈍く輝いていた。


(あの石……。いつだって、俺とあいつの真ん中にある)


 彼女は彼の膝に這い上がり、脚を彼の体に締め付ける。言葉はない。動きだけ。互いの体で、どちらにも届かない何かを追いかけるように。


 温もりではない。慰めでもない。それは、ただの逃避だった。


 生きること、そのものの重圧から。アーレンを蝕む聖蝕せいしょくの恐怖から。ライラをさいな塵渓ちりたにの亡霊から。そして、二人を待つ東の峠という未知から。


 ほんの一時、目を逸らすためだけの行為。彼は動く彼女を抱き、考えることなくそのリズムに応えた。優しくはないが、残酷でもない。ただ、生きる痛みに捕らわれた二人が、危険のふちで馴染み深い傷にすがりついているだけだった。


 二人の間の空気は濃く、息苦しく、湿ってまとわりつく。彼女の握りは、動きごとに強まっていく。快楽ではなく、くさびを求めて。世界が再び二人を引き裂く前に、自分を繋ぎ止めるために。


 そして彼はそれに応えた。それが彼の役目だったから。毎回。


 彼女が最初に震えた。鋭い息が喉に詰まり、体が弓なりになる。痛みと恐怖と絶望が、頂点で砕けたかのように。彼もすぐ後に続いた。彼女の温もりに埋もれ、息を震わせながら。


 彼女の頭が、彼の肩の窪みに落ちる。かつては安全を意味したかもしれない場所。今は、この世界に安全などないと痛感させられるだけの場所。


 その後、彼女は話さなかった。ただ彼の横に横たわり、汗で湿った肌、何も見ない目。


 やがて、彼女は立ち上がった。沈黙のうちに服を着た。マントを羽織った。


 ドアのところで、彼女は立ち止まり、振り返り、再び近づいてくる。身をかがめ、そして——いつものように——彼の額に唇を押し当てた。柔らかく。ほとんど、吐息のように。


 それから彼女は去った。掛け金かけがねがカチリと閉まる音が響く。アーレンは再び一人になった。


 彼は天井を見上げた。馴染み深い亀裂が、薄暗がりの中で暗い血管のように走っている。肉体を重ねるだけの、虚しい儀式。その虚しい儀式は、いつもアーレンの心を虚しくさせた。短く激しい繋がりは、すでに部屋の冷たさの中に消えている。


(そして、これだ。うんざりするほど優しいキス。毎回、最後に必ず)


(……最後のキス、か。馬鹿げた儀式だ。どうせ明日には死ぬかもしれねえのに)


(これも、俺たちが共に堕ちていく、定めの一幕にすぎないのか?)


 彼は知らなかった。尋ねようとも思わなかった。


 彼女の香りだけが残っていた。煙と汗……そして、おそらくは、涙の塩気。彼女が決して人前では見せない、脆さの残滓ざんし


(ライラ……もう十年になるのか。俺たちは暗闇でしがみつき合うだけの亡霊だ。一体、何のために?)


(明日は峠が待っている。この聖蝕が、まだ俺の中で囁いている……)


 それでも、彼は行く。他に選択肢はないのだから。

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