第12話 自由
大型のワイヤーカッターは、大型なのでとうぜん大きい。マキノはそれを担いだ。
担いで走り出す。その後ろを、両手に手錠をつけたミズメが追いかけた。にんげん、なんにでも慣れてしまうというべきか、彼女は手錠をつけた状態でうまく走っている。傍からみれば、お祈りのポーズをした、女学生服の可憐な娘が町中を駆け抜ける、という、奇抜だが、しかし、彼女自身が可憐な外貌ゆえ、なにか特別なドラマを感じさせる光景になっているともいえる。
いっぽうで、大型のワイヤーカッターをかついだ我が孫。マキノの方は、車の廃棄上からをスティールでもしてきたような、ならず者学生の様相をていしている。
ふたりは必死だった。周囲からどう見られているかなど気を回している余裕があるはずもない。船から脱出し、デッキから河川敷へ降りると、階段をのぼって、街の中へ戻った。
先行して走るのはマキノだった。どこかあてがあって走っている様子はない。とにかく、船から離れようとしている、無策のダッシュだった。
遠目でも船の方はまだまだ揺れていた。おそらく、息詰まる熱戦が続いているのだろう。船の本当の持ち主が帰って来たとき、船内の荒れ模様を目にして、気絶するか、鼻血を出してしまうだろう。
いや、沈んでないだけ、まだいいのではないか。船の持ち主が、そういった拡大解釈で、不幸を乗り越えてゆくことを願うばかりだった。
そうこうしているうちに、マキノとミズメは川から離れ、美術館がある方へ向かっていた。必死の逃走を試みている。待ち構えていた信号は赤で、車の通りも激しい。ふたりは落ち着かない様子で信号の色が変わるのを待つ。色が変わると、ふたたびダッシュする。
走り続け、褒めるとするなら歴史ある建物が立ち並ぶ通りを駆けてゆく。
ふたりは、それぞれ目立つ所持品と、目立つ外貌のため、真横を駆け抜けられた者は驚いて、顔をあげた。何人かに、スマートフォンで写真も撮られた。
マキノはダッシュの間、何度もミズメの方を振り返った。ついてきているか確認していた。そして、何度目かに振り返った時だった。ぜいはあ、と、息があがった合間から「あの、どこへ行きましょうか」と、訊ねた。
どこへ向かっていたわけではない、この無策ダッシュの告白だった。
ところがミズメの方も酸欠だったのか「おもむくままに」とだけ答えた。
どちらも未来がみえていないといえる。しかし、体力の限界は、さきにミズメの方へ訪れた。速度がぐんぐんと落ち始める。マキノはしばらく気がつかず、だいぶ、距離がひらいてから振り返り、慌てて、引き返して来た。そのころにはミズメは、へたりこむ寸前まで、エネルギーを消耗していた。
「ミズメさん」
「マキノさん」
名前を呼び合いつつ、合流する。マキノは視線をめぐらし、休憩ができそうな場所を探した。そこは、とある美術館の裏手だった。地下鉄駅の入り口もある。カフェもいくつかあった。しかし、マキノは殺人鬼御用達のような大きなカッターを所持しているし、ミズメは手錠つきだった。移動し続けている間は、注目もまだ少ないが、立ち止まっていると、街を通り過ぎる人々からの好奇な視線はたちまち濃厚になる。車道の向かいの通りからでも、あわよくば、スマートフォンのカメラを向けようとする者たちも生産していた。
「あの、こっちへ」マキノはミズメに声をかけ美術館の方へ向かった。
「はい」と、ミズメも従う。
ふたりして、やや暗がりの通路を抜けて行く。
通り抜けると、美術館の入場口だった。そこは広場になっていて、美術館を訪れた 人々が、列をなしている。
とうぜん、ふたりの状態で美術館の中へ入るのは難しい、セキュリティゲートを抜けられるはずもない、あやしさだった。
マキノは広場を見回す。観光客が、美術館の外観へカメラを向けていた。ここにいても目立つ。いままでで一番目立つ場所だった。
「あの、そこ、一度、座りましょう」
しかし、マキノは美術館の軒先の段差を示した。
もしや、ひとの目のあるところの方が、むしろ、安全。
そう判断したのか否かは不明だった。とにかく、ふたりはそこへ腰を下ろす。マキノはカッターを傍らに置いた。
その段差には、他にも一休みしている来館者だか、観光客だが、地元の若者だかが座っている。ふたりもと息があがっていた。そして、ミズメの方がより呼吸が乱れていた。両手が使えない、つよい負荷のある状態で走っていたし、とうぜんだった。広場には無許可販売らしき、ペットボトル入りの水を販売している者がいた。マキノは彼女へ「水、買ってきましょうか」と、伝えた。
「そばにいてください」
と、すぐに彼女がいった。
マキノは一瞬、気絶しそうになったがやがて「あ、はい!」と、大きく返事をした。
その様子を近く座っていた人たちが見ていた。
すると、ミズメが「ごめんね」と、こぼすようにいった。
「あ、いえあの」マキノは慌てて応じた。「その、依頼人を守るんです、その………おれはその………探偵の………アレ………というか………」
無理に言葉をつぐもうとして、ふわふわした回答をしてしまっている。まあ、わるくないぞ。
「えっと、だから、そのつまり」
さらに無理して、しゃべろうとする。
ふと、ミズメが顔を近づけ「つまり」と、先の言葉をうながす。
大きなふたつの瞳で、ふたつの瞳を見られ、マキノはいった。
「な」
「な?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「です」と、いった。
ミズメはじっと、見返した後で「ありがとう」と礼を述べた。
それから沈黙となった。その間に、どこからともなく、一匹の白ネコが現れて、軒先の段差をとんとんとのぼって、いちばん上の段まで来ると、影に入って、そこで寝そべった。ふたりもそうだが、そこにいたほとんどの人が、その猫を見ていた。ほどなくすると、押し車を押した白髪の女性がやってきて、猫を一瞥し、押し車の荷台をあけた。手にはネコ缶を持っている。彼女はそれをぱかんと開け、地面に置き、その場から去って行った。まもなく、ネコが段差から降りて来て、ネコ缶の中身を食べ始める。
缶から直接食べるとは器用なネコだった。食べ慣れているのだろう。
ふたりは、一連をその場にいた人々とともに観賞していた。ネコが缶の中身をきれいに食べ終えた頃には、ミズメの呼吸も正常に戻っていた。
マキノは傍らにおいていたワイヤーカッターを見て、ミズメの手錠を見た。そして「挑戦します」と宣言した。
きょとんとしてミズメが見返すと、そこにワイヤーカッターを手にしたマキノがいる。とくべつ鍛えあげられていないその手にあるワイヤーカッターは、あきらかに釣り合いなしな。使い慣れていない感が、だだ漏れだった。
「これで」マキノは両刃の合間からミズメを見つつ、両手で左右の持ち手を持つ。「自由に」
「自由」
ミズメがその言葉を口にした。
マキノは「手をこちらに」と、刃を前に出した。
「はい」ミズメは素直に手を出す。
手錠の鎖へカッターの刃を挟む。
マキノは息を飲んだ。
ミズメも息を飲む。
周囲にいた人々も、息を飲む。それに気づき、ミズメは「あの」と、声をかけた。
「はい」
「視線が」
指摘され、マキノは「わっ」と、声を出した。ただし、すぐに「あ、それだ」と、何かを思いつく。視線はさきほど猫が空にしたネコ缶の缶にあった。マキノは段を降りて、缶を拾い、適度なスペースを探す。そこに空き缶を置き「こちらへ」と、ミズメをまねいた。
ふたたび、きょとんとしつつ、ミズメがマキノへ歩みより「これは」そう訊ねた。
「はい、大道芸としての、ていで」
「大道芸」
「ここは人の目があるので、ならばあえて、こうして、手錠の鎖をこれで切るよ、みたいなショウの雰囲気を、それで周囲の不信感をふっしょくする、大道芸風大作戦を」
ワイヤーカッターを構えながらマキノが語る。そこまで聞いて、ミズメは足もとの空き缶を見下ろす。つまり、その缶は、見物料入れということか。
わたしには思いつかないアイディアだった。どうかしているぞ、マキノ。
そもそも、通りがかりの人々がワイヤーカッターで手錠の鎖を切る様子をショウだと思うのだろうか。
ところが、直後に、通すがりの老紳士が空き缶に、きりん、とコインを一枚入れた。老紳士はそのまま行ってしまう。
これだから、この街は侮れない。生涯を投じて生きたが、それでもなお、想像を超えることが、起こる街である。
その一枚のコインの音がミズメに刺激を与えたのか否か、彼女は、むっ、と、表情に力を入れた。それでも可憐さは維持されている。両手を持ち上げ「おねがいします」と、マキノへ伝えた。
「はい」マキノは返事をし、前に差し出された手錠の鎖へ、ワイヤーカッターの両刃を上下に挟む。それから、なにか気合の入ったことを言わないといけないと考えたのか、がんばって考える素振りをみせ、けっきょく、いい言葉がみつからず、あせって「し、始末します」と、妙な塩梅の一言を放つ。
そして、力いっぱい、ワイヤーカッターで鎖を断ちに行く。
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