第9話 ニッパー

 あえていわなかった。いや、いえなかった。

 ふたりは橋を渡り、川の向こう側へ向かう。午後の空は、まだ太陽が高くあるし、空は青く、清潔な水を沸かして発生した湯気のような雲は白く、その空の青さを邪魔しない塩梅で浮かんでいた。

 この川はこの街の心臓のような存在だった。血管ではなく、心臓そのものといった方が、街に生きた者にとってはしっくりくる表現になる。そう、こればかりは、ここで生きてみたいと、つかめない感覚といえる。

 川には橋がいくつもかかっていた。川幅はたいてい百メートルを越えている。かつて街が急速に発展した時期に、川に一斉に橋をかけた。そのため、時が流れ、やがて、どの橋も一斉に老朽化した。その頃、世間は景気がきわめてよかったこともあり、橋の架け替え工事が頻発した。その際、ただ橋を駆けるだけではなく、橋のデザインにも予算を投じた経緯があり、この街に掛かっている橋は、おおざっぱにいえば、芸術性をおびたものが多いといえる。奇抜な彫刻がほどこしてあったりする。そして、そんな橋のデザインに合わせるように、川の周りに立つ建物も、芸術性をおびているものが建てられていった。ただし、橋とは違い、若く、勢いがあり、かつ、単価の安い建築家が採用された。そのため、川のそばには奇抜な建物が多々ある。そして、それらの建造物も時代の気分にマッチしたのか、注目を浴び、川のそばは、ある種の建築ラッシュとなった。街の注目度があがると、川のそばに次々と美術館を建てる計画が沸き起こり、実行された。さっき、わたしは、かつて、川には金が浮いていると語った、このときが、もっとも、川に金が浮いていた時期だといえる。

 この金を生む川によって、しだいに、街に大きな暗部を生み出すことにもなった。いや、生み出されたのではない、もとより潜んでいた闇の者たちが、チカラを増すきっかけになったともいえる。

 しかし、次の時代には景気も凪となり、あのころから、ずいぶん年月を重ねたいまでは、闇の者たちも目立つこともなくなった。いや、強大なチカラは、まだ充分に所持してはいるものの、だ。

 などと、この街のことを語っている間に、ふたりは橋を渡り切った。コンクリートの階段を降り、はんたい岸に停泊してある船へ近づく。この岸にも、談笑していたりする者たちが、点々と座っていた。他者への好奇心希薄さが幸いし、誰もミズメの手錠に気づいていないらしい。

 船は立派なつくりだった。レストランでなく、個人の家だった。塗装もツヤツヤしていて、手入れもよく行き届いている。

 大型ワイヤーカッターは、デッキに置かれたままだった。無造作にそこにある。

「あった、ニッパー」と、マキノは、あくまでそれをニッパーと呼んだ。

 ワイヤーカッターは両手使いの代物で、鎖でも切れてしまいそうな迫力がある。ミズメはその印象を「怪物みたい」と、表現した。

 そして、彼女はマキノを見た。

「この船の持ち主の人にお願いして、あれをかりれば」

「あるいは」と、マキノはいう。

 あるいは、という言葉の使い方がまちがえているぞ。雰囲気でつかったのだろう。

 ふたりは向かい合い、ふたたび、デッキの上に置かれたワイヤーカッターを凝視し、そして、また顔を合わせた。

 そうして、しばらく、動きを止めた。

 やがて、マキノが「船の人に、声………かけます」そういった。

 完全に臆していた。どうも、孫は、親族、友人、学校関係者、および生活圏の人以外に声をかけることに、不慣れらしい。

 ミズメは一瞬、空を見上げ、それから「こうげき、かいし」といった。

 どういう意図の発言なんだ。なにかをがんばって放った言葉なのだろうが、わたしには理解がムズカシイ。

 さらにミズメは「せーので、お願いしてみましょう」と提案した。

「はい」マキノはうなずいた。そして、やや間をあけてから「はい」と、また返事をする。緊張で、言葉が適切な供給されなくなっているらしい。

 ふたりは決定し、おとなが見て不安になる作戦にもとづき、船へと歩み寄る。

 ミズメが「せーの」と、先んじて声を出す。祈るポーズでいうので、可憐さに、かわいらしさが追加さていた。

 いっぽうで、マキノは呼吸を合わせるのにしっぱいし、おくれて「っの、のぉ!」 と、言葉をつんのめらせて、いった。「ニッパーを!」と。

 そして、ミズメが「かしてください!」が。

 と、分担して叫ぶ。

 せーので、叫んでない。

 対して、船からは何の反応もない。誰かの船の家だろうが、平日の午後である、不在である可能性は充分にあった。

 しかし、ふたりは、めげない、あきらめない。

 マキノは船にぶつけるように、大きな声を上げる。「あのぉ、ニッパーかしてください!」

 ミズメも同じだった。「ごめんください! あの、あのぉ!」お祈りのポーズで。

 ふたりは、それなりに長い間、さながら家から閉め出されて、中に入れてくれとせがむ猫のように、ニッパー、ニッパー、あのー、あのー、と、船へ向かってコンタクトを継続させる。

 その様子は、周囲にいた人々の注目を、やや、ひきつけている。

 それでも、周囲が見えていない年頃なのか、ニッパー、ニッパー、あのー、あのー、と、ふたりは続けた。ニッパー、ニッパー、あのー、あのー。ニッパー、ニッパー、あのー、あのー、ニッパー、ニッパー、あのー、あのー。

ニッパー、ニッパー、あのー、あのー。

 もはや、奇祭の発声めいて来た。

 そのとき、船の窓のひとつが、勢いよくあいた。ふたりは、びく、となって、叫ぶのをやめて、同時にそちらへ顔を向ける。やがて、開いた窓から、黒い長そでに覆われた右手が出て来て、上に向けた人差し指が、くいくいと動いた。

 無音のまま、こちらに来いと、示している。すると、ミズメが、素直に窓へ近づいていった。窓のすぐそばに立つ。とたん、窓から飛び出すように左手が出て来て、ミズメを掴んで、窓から船の中へ引きずり込んだ。

「喰われた!」

 と、マキノが驚き叫ぶ。

 そして、窓へと駆け寄った。

 瞬間、マキノも窓から出て来た両手に捕まれ、船の中へ引きずり込まれる。

 白昼だったが、窓は河川敷にいた人々からは微妙に死角であり、一瞬だったので、誰にも気づかれていない。

 マキノも喰われてしまった。

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