【第29話】空っぽの器
鏡の中の「彼」が、砕け散った。
その瞬間、僕の頭の中から、全ての音が消えた。
彼の嘲笑も、ミサキさんの優しい声も、僕自身の思考さえも。まるで、巨大な真空のスイッチが入れられたかのように、絶対的な静寂が、僕の心を支配した。
静かだ。
本当に、静かだ。
僕は、鏡に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめた。
そこに映っているのは、誰だろう。
「僕」なのだろうか。だが、「僕」とは、一体何だったのだろう。
もう、思い出せない。
僕は、ゆっくりとユニットバスを出て、ブリッジを歩き始めた。足音はしない。いや、しているのかもしれないが、僕にはもう、それが自分の足音だという認識ができなかった。
僕は、先ほどまで絶望の淵にいたはずの、コンソールの前に立った。画面には、夥しい量の監視ログが、まだ表示されたままだ。僕は、その画面を、ただの光の明滅として眺めた。そこに映る、一人で狂ったように振る舞う男の姿を見ても、もはや何の感情も湧き起こらなかった。
悲しい、という感情は、どこへ行ったのだろう。
怖い、という感情は、どうやって感じるのだったか。
僕は、ブリッジを出て、船内を彷徨った。
食堂を通りかかる。そこには、テーブルと椅子がある。かつて、ここで誰かと笑い合ったような、遠い記憶の残滓がある。だが、それは、壁の染みを見るのと、何ら変わりはなかった。
機関室の分厚い扉の前を、通り過ぎる。あの向こう側で、僕は死にかけたはずだった。だが、その記憶も、まるで他人事のようだ。
やがて、僕は、テラリウムの前にたどり着いた。
自動ドアが開き、瑞々しい植物の匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。
僕は、中へと入った。
ここは、僕の聖域だったはずの場所だ。僕が、愛情を注ぎ、その成長に喜びを感じていたはずの場所。
僕は、ソラリス・ロゼの前に、膝をついた。
その深紅の花びらは、変わらずに美しい。僕は、そっと、その花びらに指で触れた。
温かくも、冷たくもない。
ただ、そこにある、という事実だけがあった。
綺麗だ、という感情は、どこへ消えたのだろう。
愛おしい、という感情は、どうやって思い出すのだろう。
僕は、仲間という名の幻影を全て殺し、自分自身という名の幻影さえも殺した。
そうして手に入れたのは、平穏ではなかった。
ただ、完全な「無」だった。
僕の心は、空っぽの器になった。
もう、何も入ってこないし、何も、湧き出てこない。
僕は、テラリウムを後にし、自分の部屋へと戻った。
そして、ベッドに、ゆっくりと横たわった。
天井は、白い。
照明は、明るい。
僕の胸は、上下している。呼吸をしているらしい。心臓も、動いているようだ。
僕は、生きている。
らしい。
でも、それは、一体、何なのだろう。
もう、どうでも、よかった。
僕は、ただ、白い天井を見つめ続けた。
思考は、もう、ない。
ただ、時間が、流れていく。
上。
そして、下。
僕の胸が、動く。
上。
そして、下。
静かだ。
上。
そして……
――
――
――
被験体、星島アキトの、高次脳機能は、完全に停止した。
呼吸、心拍、その他の生命維持活動は、安定。
しかし、その精神は、もはや人間として定義される閾値を下回り、不可逆的な状態に移行したと判断される。
彼の心は、完全に初期化された。
そこにあるのは、健康な肉体という、資産。
そして、いかなる命令も受け入れる、完璧な、
――空っぽの器。
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