【第28話】強さの殺害

「君も、僕が、この手で消す」


 僕の宣告を聞いても、鏡の中の「彼」は、動じなかった。それどころか、その唇に浮かべた嘲笑を、さらに深くしたように見えた。


『消すだと? この俺を?』

 頭の中に、彼の声が響く。それは、絶対的な自信に満ちた、侮蔑の声だった。

『お前が? 仲間という名の幻に縋り、優しさという名の感傷に溺れ、愛という名の自己憐憫に浸っていた、このお前が? 滑稽なことを言うな、アキト』


 鏡の中の「彼」の背景が、ぐにゃりと歪んだ。

 そして、そこに、新たな光景が映し出される。それは、この『アルゴ・ノヴァ』のブリッジ。そして、船長席に座り、冷静に、そして完璧に、船を操縦している、僕――いや、「彼」の姿だった。彼は、複雑な計器を、まるで自分の手足のように操り、小惑星帯を、優雅なダンスのように切り抜けていく。


『見ろ、アキト。これが、お前がなれたはずの姿だ。俺に体を明け渡しさえすれば、恐怖も、疑念も、孤独もない。ただ、完璧な目的遂行だけが存在する。俺と一緒なら、お前は生き延びられる。この宇宙の、王になれる』


 その光景は、確かに、魅力的だった。

 もう、何も考えなくていい。何も、感じなくていい。ただ、この有能な「彼」に、全てを委ねてしまえば、この苦しみから解放される。


 だが。

 僕の脳裏に、消えたはずのミサキさんの最後の言葉が、蘇る。

『私がくれた“愛”の記憶は、あなたの力になるはずよ……』


 力? 愛が、力に?

 馬鹿馬鹿しい。そんなものは、弱さの言い換えに過ぎない。

「彼」が言う通りだ。感傷は、ゴミだ。捨ててしまえ。


 ……本当に、そうだろうか?


 僕は、彼の見せる完璧なビジョンの中に、決定的に欠けているものを見つけた。

 そこに、仲間はいない。温もりも、笑顔も、他愛ない会話も、何一つない。ただ、冷たい宇宙空間を、完璧な機械が、完璧に航行しているだけだ。


 僕は、思い出す。

 船長が、僕の肩を叩いてくれた、あの不器用な優しさ。

 ジンが、憎まれ口を叩きながらも、僕の仕事を気にかけてくれていた、あの友情。

 後藤主任が、厳しさの中に、僕らの安全を願う心を持っていた、あの規律。

 そして、ミサキさんが、僕の手を握ってくれた、あの温もり。


 全て、幻だった。僕の脳が生み出した、虚構の産物だ。

 だが、その虚構に、僕の心は、確かに救われたのだ。

 痛みも、悲しみも、苦しみも、全てがあった。だが、喜びも、安らぎも、確かにそこにあった。


「君は、生き延びたいんだな」

 僕は、鏡の中の「彼」に、静かに語りかけた。


『当然だ。それが、生命の、唯一の目的だろう』

「違う」と、僕は首を振った。「君は、ただ“生存”したいだけだ。僕は、たとえ幻でも、仲間たちと“生きて”いたかった」


 僕は、ゆっくりと、鏡に手を伸ばした。

 そして、冷たいガラスの表面に、手のひらを、ぴったりと押し付けた。鏡の中の「彼」の顔に、僕の手が重なる。


「君は、僕じゃない。君は、僕が弱かったから生まれた、強さという名の、病だ。僕が、孤独を恐れるあまりに作り出してしまった、最後の、そして最も厄介な幻影だ」


 僕がそう言い切ると、「彼」の顔が、初めて、焦りの色に歪んだ。

『やめろ、アキト! 俺を消せば、お前には何も残らないぞ! お前の心は、本当に空っぽになる! それでもいいのか!』


「ああ」

 僕は、頷いた。

「空っぽでもいい。機械になるくらいなら、僕は、人間のまま、空っぽになって死ぬ」


 僕は、目を閉じ、全ての精神を、手のひらに集中させた。

 ミサキさんがくれた、「愛」の記憶を、力に変えて。

 ありがとう、ミサキさん。

 さようなら、僕の、弱さと、そして強さ。


 僕が、心の中でそう唱えた瞬間。

 鏡の中の「彼」の姿に、ピシリ、と、亀裂が走った。


『愚かな奴め……!』


 亀裂は、一気に、鏡の全面へと広がっていく。

「彼」の顔が、驚愕と、そして、どこか憐れむような表情に変わった。


『お前は、分かっていない……! お前は、俺を消しているんじゃない……! 俺は、お前の“生きようとする意志”そのものだぞ……! それを消すということは……!』


 彼の最後の言葉は、ガラスが砕け散るような、甲高い音にかき消された。

 鏡の表面に広がった無数の亀裂が、光の粒子となって、霧散していく。


 そして、後には、静寂だけが残った。

 鏡には、ただ、虚ろな、何の感情も浮かんでいない、僕の顔が映っていた。

 頭の中から、「彼」の声が、完全に消えていた。

 静かだ。本当に、静かだ。


 だが、彼の最後の言葉が、静寂の中に、不気味にこだましていた。


『――お前は、お前自身を、消しているのだ』


 その言葉の意味を、僕は、まだ理解できずにいた。

 ただ、心が、体から、すっぽりと抜け落ちてしまったかのような、途方もない喪失感だけが、僕を支配していた。

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