【第21話】最後の男

「……お前は、一体、何なんだ」


 後藤主任の声は、震えていた。

 正常な駆動音を取り戻した機関室の静寂の中に、その問いだけが、まるで異物のように取り残されている。彼の構えるスタンガンの銃口は、真っ直ぐに僕の心臓を捉えていた。その瞳に浮かんでいるのは、もはや僕への疑念ではない。人間ではない「何か」に対する、純粋な、そして根源的な恐怖だった。


「何を、言っているんですか……?」

 僕の喉から、か細い声が漏れた。酸素は戻ったはずなのに、まだ呼吸がうまくできない。

「僕は、ただ……僕が、どうやってバルブを……?」

 記憶がない。機関室の地獄の中で、僕の意識は確かに途切れていたはずだった。それなのに、目の前には正常に開かれたバルブと、僕の豹変を目の当たりにしてしまった、最後の仲間がいる。僕の体なのに、僕のものではないような、奇妙な違和感が全身を支配していた。


「お前の中に“いる”ヤツに聞いているんだ」

 後藤主任は、じり、と一歩後ずさった。彼は僕を信じていない。僕が何を言っても、もはや彼の耳には届かないだろう。


 僕は、必死に弁明の言葉を探した。だが、その時だった。

 僕の視線が、後藤主任の、その背後に釘付けになった。


 影だ。


 それは、闇ではない。光がない場所にできる、ただの影ではない。

 まるで、空間そのものが黒く染み出し、じわりと濃度を増していくような、絶対的な“無”の塊だった。計器パネルが落とす濃い影が、まるで生き物のように、その輪郭を蠢かせている。


「あ……」

 声を出そうとした。危ないと、伝えなければ。

 だが、喉が、まるで凍りついたかのように動かない。指一本、持ち上げることさえできない。金縛りにあったように、僕はただ、その恐ろしい光景を見つめていることしかできなかった。


 後藤主任は、僕の視線の変化に気づいていない。彼は、目の前の僕という新たな脅威に、全神経を集中させていた。


 影は、音もなく、後藤主任へと近づいていく。

 そして、まるで水が乾いた地面に染み込むように、彼の背中に、じわりと重なり、溶け込んでいった。


「――ッ!」


 後藤主任の体が、ビクン、と大きく痙攣した。

 彼の目が、信じられないものを見たかのように、大きく、大きく見開かれる。彼は、自分の身に何が起きているのかを、その最期の瞬間に、ようやく理解したのかもしれない。

 彼は、最後の力を振り絞るように、操り人形のようにぎこちなく、僕の方を向き直った。

 その口から、空気が漏れるような、空虚な声が響く。


「……分かったぞ……。犯人は、お前では、ない……。本当の、敵は……」


 彼が、その言葉を言い切ることはなかった。

 彼の体が、古いテレビの映像が乱れるように、激しいノイズと共にブレ始めた。輪郭が崩れ、色が失われ、まるで陽炎のように透き通っていく。

 そして、数秒後。

 僕の目の前から、後藤主任の存在は、完全に、跡形もなく、掻き消えた。


 後には、彼が持っていたスタンガンだけが、カラン、という虚しい音を立てて、冷たい床に落ちた。


 僕は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。

 船長が消えた。

 ジンが消えた。

 そして今、後藤が消えた。


 船長という父を失い、ジンという友を失い、そして、後藤という最後の理性を失った。

 僕の精神を、かろうじて繋ぎとめていた三本の柱が、全て、失われた。


 視界が、急速に白んでいく。

 世界の音が、遠ざかっていく。


 ミサキさん。


 心の中で、最後の仲間の名前を呼ぼうとした。

 だが、その声が形になる前に、僕の意識を支えていた最後の糸が、ぷつりと、切れた。

 僕は、崩れ落ちる自分の体さえも、どこか遠い他人事のように感じながら、深い、深い闇の中へと、沈んでいった。

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