【第20話】正常へのカウントダウン

 僕の指が、まるで僕自身のものではないかのように、滑らかに、そして正確にキーボードの上を舞っていた。思考は水晶のように澄み渡り、目の前の複雑なコードの羅列は、子供向けのパズルのように単純に見えた。

 恐怖も、焦りも、酸素欠乏による思考の混濁も、今はどこか遠い世界の出来事のようだった。


『――哀れな男だ、後藤』

 僕の頭の中で、もう一人の僕が冷静に呟く。

『この船の本当の設計思想を、お前は何も理解していない。ただマニュアル通りに動くだけの、出来の悪い機械人形だ』


 僕は、後藤主任が驚愕と恐怖に歪んだ顔でこちらを見ているのを、視界の端で捉えていた。それでいい。恐怖しろ。お前たちが「アキト」と呼んでいた、あの気弱で無能な男は、もういないのだから。


 僕は、システムの深層部に隠された最後の扉を開く。船長さえも知らなかったであろう、緊急時用のオーバーライド・コマンドだ。ディスプレイに、コマンドプロンプトが点滅する。

 僕は、そこに、ただ一つの単語を打ち込んだ。


『REBIRTH』


 そして、Enterキーを、静かに、しかし強く押し込んだ。


 直後、メインフレームから『コマンド承認』の電子音が響き渡る。僕らの目の前にある、巨大なメインバルブから、ガコン、という重い金属音がした。テロ対策用の、あの絶対的な物理ロックが、内部から無効化された音だった。


「……ロックが、解除された……?」

 後藤主任が、信じられないという声で呟いた。

 僕は、彼の方を振り返り、無言でバルブを指さした。何を呆けている。回せ。酸素が欲しいのだろう?


 僕の意図を察したのか、後藤主任は我に返ると、バルブへと駆け寄った。僕も後に続く。二人で巨大なハンドルに全体重をかけると、それは、長い間動かされることのなかった、軋むような音を立てて、ゆっくりと回り始めた。


 ゴウッ、という力強い音が、パイプの中を空気が流れていく音だと気づくのに、数秒かかった。

 船内をけたたましく満たしていた警告音が止み、不気味な非常灯の赤い光が消え、世界が、正常な白色の照明に包まれた。


 僕らは、床に倒れ込むように座り込むと、貪るように、甘い酸素を肺いっぱいに吸い込んだ。後藤主任は激しく咳き込み、僕はただ静かに、深く、深く呼吸を繰り返した。

 満たされていく。体が、思考が、正常へと戻っていく。

 そして、僕の中にいた「彼」の意識が、満足したように、すうっと遠ざかっていくのを感じた。


『さて、仕事は終わりだ。あとは、この無能な主人に体を返すとしよう。せいぜい、この後の絶望を楽しむがいい』


 その声を最後に、僕の意識は、激しい疲労感と共に、現実へと引き戻された。


 ***


「……はっ、……はぁっ……」

 僕は、激しく咳き込みながら、自分が機関室の床に倒れていることに気づいた。目の前には、完全に開かれたメインバルブと、同じように床に座り込み、安堵と疲労の入り混じった表情を浮かべた後藤主任がいる。

 何が、起こったんだ……?

「……あれ……?」僕は、自分の声がひどくかすれていることに驚いた。「僕が……やったのか……? どうやって……?」

 僕の記憶は、後藤主任と二人で絶望的な状況に陥ったところで、完全に途切れていた。


 その僕の言葉を聞いた瞬間、後藤主任の顔から、安堵の色が消えた。

 彼は、ゆっくりと僕から距離を取ると、まるで人間ではない「何か」を見るような、剥き出しの恐怖と疑念に満ちた目で、僕を凝視した。

 彼は、見てしまったのだ。僕の中に潜む、「別人格」の存在を。僕という人間が、もはや一つではないという、恐ろしい真実を。


 後藤主任が、震える声で、僕に問いかけた。

「……お前は、一体、何なんだ」


 その、問いに答える声はなかった。

 ただ、その時、僕の目は、後藤主任の背後にあるものを、はっきりと捉えていた。


 後藤主任のすぐ後ろ。

 計器パネルが落とす、濃く、深い影。

 その影が、一瞬だけ、ゆらりと、まるで陽炎のように揺らめいた。

 そして、それは、ただの影ではない、明確な人型となって、ほんの一瞬だけ、その輪郭を濃くしたのだ。


 それは、気のせいなどではなかった。

 船長を消し、ジンを消した、あの「何か」。

 後藤主任が追い求めていた「精神寄生体」。

 それが今、彼の、すぐ背後にいる。


 僕は、恐怖で声も出せず、ただその影を指さそうとした。だが、指一本、動かすことができない。

 後藤主任は、僕の視線の先に気づかず、ただ、目の前の僕という新たな脅威に、全神経を集中させていた。


 自分の背後で、静かに、そして確実に、悪夢が口を開けていることにも、気づかずに。

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