【第3話】最初の消失

 航海日誌、Day 1544。

 あの日、展望デッキで船長と話してから、二日が過ぎた。彼の言葉は、僕の思考の隅に小さな棘のように刺さったままだ。僕は何度となくその意味を反芻したが、答えは見つからない。ただ、約束の時間が近づくにつれて、僕の胸の高鳴りは抑えきれなくなっていた。


『詳しい話は、私の部屋で』


 その言葉が、僕を未知の真実へと導く扉のように思えた。僕はコンソールに表示されたステーション内時刻が、約束の19時ちょうどを指したのを確認し、研究室の椅子から立ち上がった。


 船長室のドアの前に立ち、僕は一つ深呼吸をする。そして、インターホンのボタンを押した。電子音が、静かな廊下に響き渡る。

 しかし、応答はなかった。


 もう一度、押す。やはり、沈黙が返ってくるだけだ。船長室を包む静寂が、まるで分厚い壁のように感じられた。

「船長……? アキトです」

 ドアに向かって呼びかけてみるが、自分の声が虚しく響くだけだった。まさか、体調でも崩しているのだろうか。あるいは、僕との約束を忘れてしまうほどの緊急事態が?


 悪い予感が、冷たい霧のように心を覆い始める。僕は踵を返し、機関室へと続く通路を早足で向かった。こういう時、まず頼るべきはジンだった。


「船長が応答しない?」

 機関室で大型冷却装置のパネルを開けていたジンは、僕の報告を聞くと怪訝な顔をした。彼の隣では、医務室から来ていたミサキさんが、心配そうにこちらを見ている。

「昼間の定時連絡には応答があったはずだぞ」とジンは言った。「まあ、あの人のことだ。疲れて昼寝でもしてるんじゃねえの?」

「だといいんだけど……」


 僕の不安が伝わったのか、ジンは「仕方ねえな」と工具を置いた。結局、ミサキさんも含めた三人で、保安室にいる後藤主任に報告へ向かうことになった。


 後藤さんは僕らの報告を聞いても、表情一つ変えなかった。だが、その瞳の奥に、一瞬だけ険しい光が宿るのを僕は見逃さなかった。

「船長が定時連絡以外で応答しないのは異常事態だ。全員、行くぞ」


 再び、船長室の前に四人が揃う。後藤さんが何度か呼びかけた後、ついに決断を下した。

「マスターキーで強制解錠する」


 彼が携帯端末をドアのコンソールにかざす。認証音が鳴り、重々しい金属音と共に、船長室の電子ロックが解除された。ゆっくりと、扉が開いていく。その隙間から流れ出てきたのは、生活感のない、ひやりとした空気だけだった。


 部屋の中には、誰もいなかった。


 ベッドは完璧に整えられ、シーツには一つのしわもない。デスクの上のコンソールはスリープモードで黒く沈黙し、書類も綺麗に整頓されている。まるで、ホテルのチェックアウト後のように、整然としていた。争った形跡も、誰かが慌てて出ていった気配もない。

 そこは、ただ空っぽの部屋だった。


「冗談だろ……?」

 ジンが、引きつった声で呟いた。ミサキさんは、小さく息を呑んで後ずさる。


 後藤主任が、鋭い視線で室内をくまなく見渡した。そして、僕らに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。

「この部屋の出入り口はここだけだ。エアロックも作動していない。我々が入るまで、内側から電子ロックがかかっていた。……つまり、ここは完全な密室だったということだ」


 その言葉は、僕らの最後の希望を打ち砕く宣告のように響いた。


 ***


 後藤主任の指示で、僕らはステーション内の徹底的な捜索を開始した。

 いつもは憩いの場であるはずの中央テラリウムが、今は人の身を隠すのに十分な暗がりを持つジャングルに見えた。毎日食事をとる食堂のテーブルの下や、資材が積まれた倉庫のコンテナの隙間まで、僕らはくまなく探した。

 だが、船長の姿はどこにもなかった。まるで、この宇宙に溶けて消えてしまったかのように。


 捜索が打ち切られたのは、それから三時間後のことだった。重い疲労と、それ以上の絶望感を抱えて、僕らはそれぞれの持ち場へと引き上げていった。


 自室に戻り、僕は航海日誌のコンソールを前に、呆然と座り込んだ。

 今日の日付の下には、まだ一行も書かれていない。何を書けばいい? 『船長が消えた』と、ただ一行、そう記せばいいのだろうか。


 僕は、無意識にペン型デバイスを握りしめていた。


 船長が消えた。

 忽然と、理由もわからず、僕らの目の前から。

 あの時、展望デッキで船長が僕に伝えようとしていた『唯一の真実』とは、一体何だったのだろうか。


 その言葉は今、答えを失った謎として、僕の心に重く突き刺さっている。

 そして、この時からだった。僕らの歯車が、静かに、だが確実に狂い始めたのは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る