【第2話】虚空の囁き

 航海日誌、Day 1543。

 昨日の穏やかな一日を経て、ステーションはいつも通りの静かな朝を迎えた。僕は自室に隣接する小さな研究室で、テラリウムから採取した土壌サンプルの分析データをコンソールに打ち込んでいた。遺伝子組み換えにより、この極限環境でも力強く根を張る植物たち。その生命力の秘密を解き明かすのが、僕の任務だ。モニターに並ぶ塩基配列の羅列は、僕にとってどんな物語よりも雄弁な詩だった。


 コンソールの冷却ファンが立てる微かな音だけが響く静寂を、不意に破る声があった。


「アキト」


 電子ドアが、音もなく開いていた。そこに立っていたのは、海上イサミ船長だった。普段、彼が僕の研究室まで足を運ぶことは滅多にない。その珍しい訪問に、僕はわずかに背筋を伸ばした。


「船長。何か問題でも?」

「いや」と船長は短く答え、僕を手招きした。「少し、いいか。話がある」


 船長に導かれて向かった先は、ステーションの最前部に位置する展望デッキだった。床から天井まで一枚の強化ガラスで覆われたその場所は、僕のお気に入りでありながら、同時に最も恐ろしい場所でもあった。一歩足を踏み出せば、宇宙の深淵が眼前に広がる。星々の光は、美しいというより、あまりにも冷たく、絶対的な孤独の色をしていた。


 船長は、その虚空に浮かぶ無数の光を、まるで旧知の友を眺めるかのように静かに見つめていた。


「アキト。お前は、この航海の本当の意味を、どう考えている?」


 その問いは、あまりに唐突で、哲学的だった。僕は言葉を選びながら答える。

「人類の新天地を探し、未来の礎を築く、名誉ある任務だと……思っています」

「そうだな」船長は頷いた。「表向きは、な」


 彼の声は、囁くように静かだった。

「物事には常に裏がある。この輝かしい『アルゴ・ノヴァ』計画も…そして、この静寂すぎる宇宙もな」


 船長の視線が、ガラスの向こうの暗闇から、僕へと移される。その瞳の奥は、目の前の宇宙と同じくらい、深く暗い色をしていた。吸い込まれそうだ、と僕は思った。


「いいか、アキト。お前は“記録”を続けろ。機関士でも、保安主任でもない。他の誰でもない、植物学者であるお前の、その純粋な目が、この航海の唯一の真実になるかもしれん」

「僕の、目が……?」

「そうだ。命の些細な変化を見逃さない、お前のその観察眼が、だ。何が起きても、見たままを、感じたままを、記録し続けろ。それがお前の、最大の武器になる」


 船長は何を言っているのだろう。まるで、これから何か良からぬことが起こるとでも言うような口ぶりだった。僕が何かを問い返そうとする前に、船長は僕の肩に、ポンと手を置いた。


 その瞬間、僕は奇妙な感覚に襲われた。

 船長の手は、まるで氷に触れたかのように冷たかった。いや、それ以上に、質量そのものが感じられないような、希薄な感触だったのだ。まるで、厚い手袋越しに触れられているかのような……。

 長旅の疲れだろうか。僕の感覚も、少しおかしくなっているのかもしれない。


 僕がその違和感の正体を探るより先に、船長の手は離れていった。彼が僕の横を通り過ぎ、デッキの出口へ向かう。その雄大なシルエットが、展望デッキのガラスに映っていた。


 一瞬、本当にほんの一瞬だけ、ガラスに映っているのが僕一人だけに見えた。


「詳しい話は、また改めて」


 電子ドアの前で立ち止まった船長が、こちらを振り返らずに言った。


「近いうちに、私の部屋で。……二人だけでだ」


 その言葉だけを残して、船長の姿は廊下の向こうへと消えていった。

 一人残された展望デッキで、僕はガラスに映る自分の顔を見つめた。ひどく、青ざめている。船長の言葉が、何度も頭の中で反響していた。


『唯一の真実』


 あの静かな瞳の奥に宿っていた、深い闇のようなものはいったい何だったのだろうか。

 その答えを、僕が知ることになるのは、もう少しだけ、先の話だ。

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