空気人間2号

カズロイド

#01

目が覚めたとき、世界から音が抜け落ちていた。


カーテンの隙間から差し込む朝光が、干しっぱなしの洗濯物の輪郭をなぞり、寝ぼけた顔にいびつな影を落とす。


枕元のスマホが鳴った。着信ではない。いつものアラームだ。

まだ覚めきらない脳と体に容赦なく突き刺さるその音は、高校時代、毎朝耳にしていた母の声を思い出させた。

空気の読めない音だった。


……ああ、音はあったんだな、と僕は思った。


手探りでスマホをつかみ、アラームを止める。

眠気を払うように画面の輝度を最大にすると、通知がずらりと並んだ。

「今日の天気はおおむね晴れ、気温は27度まで上昇するでしょう」

誰も頼んでいないのに、スマホだけが律儀に話しかけてくる。


布団の中でしばらく天井を見上げた。

見慣れたはずの白は、今日に限って冷蔵庫の内壁のように冷たく感じる。


静かだった。

いつもなら聞こえるはずの、車の往来も鳥の囀りもない。


なんとなく気味が悪くて、布団を蹴って身を起こす。

ところどころざらつくフローリングを踏みしめ、洗面所へ向かった。


洗面所の電気をつけると、蛍光灯がワンテンポ遅れて淡い白色を落とす。

蛇口をひねると、冷たい水が指の隙間を流れ落ちる。手のひらで勢いよく顔を洗い、ふと顔を上げた瞬間──世界が凍りついた。


鏡の中に、僕の姿がない。


壁も電球もタオルハンガーも、すべてが正確に映っているのに、中央に立つはずの“僕”だけがぽっかりと抜け落ちている。


呼吸を忘れたまま、顔を左右に振る。

何も映らない。

腕を振っても、空白だけが揺れた。


蛇口を閉めると、水音が途切れ、洗面所の静けさが一段と濃くなる。

僕は震える手のひらを見つめた。水滴が指先を伝い、ぽと、ぽと、とシンクに落ちる。

確かに「ここ」にいる。だが、視覚だけがそれを裏切っている。


「これは夢じゃない」と確信したと同時に、僕は思わず答えを探した。

──じゃあ、これはなんなんだ?


だけど、答えは出てこなかった。

起きたばかりの脳に、そんな難題を投げかけるのは、少し申し訳ない気すらした。


何かの間違いであってほしかった。

鏡が割れているとか、反射の角度がおかしいとか、理由を頭の中で必死に探した。

しかし鏡はただ淡々と、世界の正しさを映し続けるばかりだ。


僕は寝室に戻り、そこにある姿見でも確認した。

結果は同じだった。やはり、何も映っていない。


スマホを手に取り、カメラを起動。インカメラに切り替えて画面を凝視する。そこにも、温もりの残る布団と洗濯物しか映らない。


指先が微かに震える。シャッターを切っても、写真には僕の気配すらない。


その瞬間、喉の奥がきゅっと縮まった。

呼吸はできているはずなのに、空気が肺に入ってこないような気がする。

立っているはずの床が、ほんの少しだけ遠くに感じた。

地に足がついているはずなのに、重さがない。


スマホを握りしめたまま、寝室の扉に手をかける。

扉は、いつも通りに開いた。

物には触れられる。動かすこともできる。

けれど、世界は──

まるで僕のことを、“初めから存在しなかったもの”として扱っているようだった。




どれくらい立ち尽くしただろう。時間の感覚すら曖昧になり、頭はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。


それでも、とりあえず着替えることにした。

他にできることが、どうしても思いつかなかった。


クローゼットを開け、ワイシャツとネクタイを取り出す。

実家の匂いが微かに残る Tシャツを脱ぎ捨て、ワイシャツに袖を通す。

手の感触はある。パリッとした生地が肌に触れる感覚も、ちゃんと残っていた。


だけど、鏡を覗くと──

やはり、何も映らない。


さっきと同じだ。ただの空間。

白い壁紙もドアノブもベッドカバーの皺も、すべてが正確に映っているのに、

その中央にあるはずの“僕”と“服”だけが欠落している。


ネクタイを首に回し、手探りで結ぶ。鏡がないだけでこんなにも手こずるなんて。


スマホ、財布、家の鍵をポケットに収め、仕事用の鞄を手に取る。

革靴を履き、玄関のドアノブを握る。

冷たい金属の感触が、やけに現実的に感じた。


“外に出れば、何かわかるかもしれない。”


その淡い期待だけを頼りに、僕は世界へ踏み出した。




玄関を開けた瞬間、朝の風が頬を撫でた。

室内にこもっていた湿気を連れ去るように、心地良い温度の空気が全身をやさしく包み込む。


ポケットから鍵を取り出し、いつもの調子で鍵をかける。


アパートの階段を下りるあいだ、なぜか頭の中で自分のプロフィールをなぞっていた。


成瀬蓮也、25歳。千葉出身。大学進学を機に上京し、今は都内で一人暮らし。通信系の営業会社に勤めて3年目。趣味はゲーム。恋人はいない。身長171センチ、痩せ型。血液型A型。かに座──。


……うん、大丈夫。ちゃんと自分のことは覚えている。


ほんの一拍置いて、自分のプロフィールがこんなにもスラスラと出てきたことに違和感を覚えた。


ふと足元に視線を落とす。

そこには、影がなかった。


前を歩くおばさんや、自転車を漕ぐ高校生の足元には、くっきりとした影が揺れているのに、

僕だけが、ない。


もう驚きもしなかった。

むしろ乾いた笑いがこみ上げる。


自分が存在しているのかどうかも分からないくせに、駅へと向かう足はいつも通りのリズムで動いている。


まるで、“社会人としての自動運転”が作動しているかのようだった。




中野駅に着くころには、街全体がすっかり「出勤モード」に入っていた。

横断歩道の青信号は一瞬の油断で渡りそびれ、人の流れは溢れ出す水のように駅へと吸い込まれていく。


改札口では誰もが迷いなくICをタッチし、素早く通り抜けていく。

僕もその流れに紛れて、無意識にポケットからスマホを取り出し、いつも通りにかざした。

ピッ、と反応音が鳴り、バーが開く。僕はそれを自然に通り抜ける。


──だが、ふと立ち止まった。


(Suicaが反応したってことは、機械は僕の存在を認識してるってことか?)


試しにもう一度バーの前に立ち、今度は何もかざさず出場側へ向かってみた。


「ピンポーン!」


けたたましい警告音が響き渡る。

周囲がざわついた。


僕は一瞬、耳の奥が熱くなるのを感じたが、なぜか視線は感じなかった。

「え?」「なに今の?」

そんな声が飛び交う中、人々の目は僕ではなく、赤く点灯する改札のランプに向いていた。


でも、なぜだろう。ほんの少しだけ嬉しかった。

数時間ぶりに、この世界に自分が存在していることを実感できた気がしたから。


(ちゃんと、実体はあるってことか)


苦い匂いを嗅いだときのように眉根を寄せながら、ふと思いつく。

──でも見えてないなら、誰かの後ろについて行けばいいんじゃないか?


ちょうどそのとき、パンプスの音を響かせながら、四十代くらいの女性が改札へ向かってきた。

手にはスマホとICカード。表情はきびきびとしていて、出勤に慣れた様子だった。


僕は彼女の背後にぴたりと貼りつき、「ピッ」の直後、バーが開いた隙間へ滑り込む。

反応したのはICカード一枚分。

女性は後ろを振り返りもせず、スマホへ視線を戻して去っていく。


(……いけた)


ふと自分の姿を想像すると、

たまにSNSで見かける、無賃乗車の学生と重なって、少しだけ罪悪感が芽生える。


でも、どうせ見えていないんだし。

さっきはちゃんとSuicaをかざしたし。

自分にそう言い聞かせ、再び誰かの背後に吸い寄せられるようにして入場改札を抜けた。




ホームへ出ると、平日の中野らしい喧噪が渦を巻いていた。

エスカレーターの左列は停滞し、右列は駆け上がる足音がせわしない。

コーヒーを片手にスマホを眺める人、ネクタイを直しながら急ぐ人──“仕事”という名の波に吞まれるように、誰もが同じ方向へ押し流されていく。


その流れの中、僕はふと、前を歩くサラリーマンに目をとめた。


頭頂部は見事にハゲ散らかり、油をさしたようにテカっている。

ネイビーのジャケットは、首元と背中にかけて汗ジミで色が変わっていた。


(……あの頭に触るのは、ちょっと勇気いるな)


そんなことを思いながら、僕はゆっくりと手を伸ばした。

狙いを変えて、ジャケットの肩パッドの先端を指先で軽くつつく。


その瞬間、サラリーマンの肩がピクリと動いた。


彼はしかめっ面で振り返る。

その顔は、見事にハゲ散らかった頭頂部にセットで付いてきたような、違和感のないものだった。

けれど、その視線は僕には合わない。

正確には、僕のすぐ“後ろ”を見ているような気がした。


そして、ゆっくりと前を向いたかと思えば、何かに引っかかったように、もう一度だけちらっと後ろを見た。

お世辞にも綺麗とは言えない二度見だった。


(実体はあって、人やモノに触れることもできるってことか)


僕はパズルのピースをかき集めるように思考を整理しながら、歩幅を緩めて彼から距離を取った。


まるで、自分が何か悪いことをしたかのように。




サラリーマンの反応を見た瞬間、僕の中で何かがカチリと切り替わった。

不安も焦りも霧散し、代わりに奇妙な興奮が湧き上がる。


「……じゃあ、次は、もっと大胆にやってみるか」


人波で満ちるホームの中央に立ち、ぐるりと振り返る。

そして、陽だまりのシーツに身を広げるように両手両足を大きく開いた。


次々と押し寄せる通勤客たちは、慌ただしくスマホをいじったり、目の前の階段に視線を固定したまま駆け抜けていく。

その波に、僕の体はじわりじわりと呑まれていった。


僕の手に触れた人が、一瞬だけ肩をすくめる。

足がかすった相手が、不思議そうに足元を見て通り過ぎていく。


それでも、誰一人として、僕を“見て”はいなかった。

まるで、空気の塊にぶつかっただけかのように、みんなは流れていく。


(本当に……見えてないんだな)


それでも僕は、完全に身を委ね切れなかった。

真正面から迫る人にはつい身を引き、ぎりぎりかすめる距離に調整してしまう。


──臆病さなのか、優しさなのか。

いや、きっと臆病さだ。

この期に及んで、僕はまだ人の目や反応を恐れている。


この仁王立ちも“試したい”より、“試しそうな自分を制御する”ための実験にすぎない。


目に映るあらゆる境界線が、次第に曖昧になっていく。

閉まりかけの電車のドアに手を挟んだら?

黄色い線の向こうへ半歩踏み出したら?

そんな考えが、不意に頭をかすめる瞬間が、確実に増えていた。


もちろん、飛び込むつもりなんてない。

けれど“見えない”という感覚が、世界のルールをどんどん遠ざけていく。


だからこそ、あえて人波に突っ込み、肌へ伝わる温度と質感だけで、自分がまだ現実と繋がっていることを確かめていた。


通りすがりに触れた一瞬の触覚だけが、僕とこの世界を、かろうじて結びとめていた。




僕は電車に乗り、そこから一駅の新宿駅で降りた。

新宿駅に着くと、人の波はさらに濃密になった。体温のような熱気が肌にまとわりつく。


改札へ向かう流れに乗りながら、わざわざSuicaをかざす手間が億劫になり、前を歩く男性の背にぴたりと張り付く。

彼のICが反応しバーが開く、その一拍で滑り抜けると、背中に汗ばむような後ろめたさがまとわりついた。

正規ルートを踏んだ方が目立つ──そんな皮肉が妙に居心地を悪くさせる。


会社までは徒歩5分。

見慣れたはずの通勤路が、今日はやけによそよそしい。

角を曲がるたび、街並みが薄い膜越しにぼやけて見える。


ビルの影が視界に入り、スマホを見ると午前9時10分。始業時刻はとうに過ぎていた。

──ホームで仁王立ちして遅刻しました、なんて言えるはずもない。

もっとも“見えない”自分を誰が咎められるだろう、という苦い諦めが喉に絡む。


入り口では、例の快活な警備員がいつも通り立っている。

誰にでも大声で挨拶を投げる、あの少し騒がしい人だ。

僕は申し訳程度に「おはようございます」と囁くが、彼の視線は虚空をすり抜けるように僕を素通りした。

挨拶をされなかったのは、入社以来、これが初めてだったかもしれない。


エレベーターホールには、すでにグレーのスーツを着た三十代くらいの男性が、無表情で待っていた。

僕はその隣に立ち、彼より半歩遅れてエレベーターに乗る。


サラリーマンは迷いなく「8」のボタンを押すと、すぐにスマホに視線を落とした。

僕は「5」のボタンにそっと指を伸ばす。


静かに上昇する箱の中、モーターの低いうなりだけが鼓膜を震わせる。

やがて、「5階です」という機械音とともに、ドアが開いた。


男性がふと顔を上げる。

少し困惑したように眉をひそめ、パネルを見やった。


(そりゃ驚くよな)


彼はしばらくドアの先を見つめていたが、誰も乗り降りする気配がないとわかると、

小さく首をかしげ、再びスマホに視線を戻した。


その隙を縫い、僕は気配すら残さずエレベーターを降りた。




エレベーターを降りた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。

壁の淡いグレー、ほのかな消毒液の匂い、遠くで弾ける咳払い──すべてが見慣れた職場の景色のはずなのに、胸の奥に重い違和感が沈殿している。


まるで初めてインターンに来た学生のように背筋を強張らせながら、廊下をそろりと進んだ。


自動ドアの前に立つと、センサーが無機質に反応し、音もなく開く。

カーペットが足音を吸い込み、僕は誰の目にも触れずに中へ入った。


奥には10ほどのデスクが整然と並び、それぞれの朝が静かに稼働しはじめていた。

パソコンが立ち上がる電子音、電話のベル、コーヒーを注ぐ水音、椅子を軋ませる笑い声。

耳に届くのは、確かに昨日と変わらない“日常”だ。


──少しだけ、ほっとした。


ふと、自分のデスクに目をやると、椅子の上には誰かのバッグが置かれていた。

机には見慣れないマグカップと、無造作に積まれた書類の山。


(……なんだよ、これ)


ネームプレートには確かに「成瀬蓮也」と刻まれているのに、僕の席は、誰かの物置にすり替わっていた。


理解が追いつかず、思わず立ち止まる。


──僕の姿が“見えない”だけじゃないのか?

なんで、たった一日で席がこんなふうになる?

まるで最初から僕がいなかったみたいに。


もしかして、みんなの記憶からも──僕の存在が、消えている?


背中を汗が伝うような感覚だけが、妙に生々しく残った。


僕はその場を離れ、フロアの隅にしゃがみ込む。

膝を抱えて三角座りのまま、自分のいないオフィスを茫然と見つめた。


キーボードを打つ軽快なリズム。

受話器を取る短い声。

スチールマグの控えめな金属音。


すべてが、僕抜きで“順調”に回っている。

むしろ僕がいないほうが、空気は軽やかに流れているようにも思えた。


(……そりゃそうか)


少しだけ笑って、すぐにその笑みを引っ込めた。


気づけば、昔からこうだった。


──会議中、他人の発言は内容よりも声の強さが気になって、「おっしゃる通りです」としか言えない。

意見を言おうとしても、誰かの眉がぴくりと動いた瞬間、声が喉の奥に引っ込んでいった。

──自分なりに考えて出した提案も、少しでも指摘されると「すみません、ただのミスです」と誤魔化していた。

自分の思いを伝えるより、責められないほうがずっと大事だった。


そんなふうに過ごしてきた毎日の積み重ねが、

今の“空気になった僕”を作ったのかもしれない。


静まり返ったカーペットを見つめ、長く息を吐く。


──僕なんか、いてもいなくても一緒なんだ……。




僕は、会社を後にした。

誰にも気づかれず、誰にも話しかけられず、ただ自動ドアの開閉音だけが、そっと背中を押した。


外に出ると、朝の街はすでに日常の喧騒に包まれていた。

カフェの前で笑い合うカップル、歩きながら電話をするビジネスマン。

通りの向こうでは、若い女性が年上の男性に笑顔を向け、自然な仕草で腕を絡めた。

誰もが、誰かとつながっているように見えた。


そんな光景を横目に、僕は駅とは反対の道を、あてもなく歩き出した。

風の吹くまま、日差しの射すほうへ。

そうでもしないと、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。


しばらく歩いていると、小柄な女性がこちらへ向かってくるのが見えた。

身長は150センチそこそこだろうか。

同い年か、あるいは少し年下にも見える。


鎖骨にかかる黒髪が風にそよぎ、切り揃えられた前髪の奥で大きな瞳がまっすぐ前を見据えている。

日差しの中でも際立つような白い肌に、タンクトップとピンクベージュのカーディガンという軽やかな装い。

その姿は、春風のようにやわらかだった。


けれど、彼女の歩き方だけは違っていた。

まるで空気を切り裂くように、まっすぐに、そして迷いなく直進してくる。


つい足を緩めて彼女をぼんやりと見つめていると、その歩みは想像よりずっと勢いがあり、気づけばもう目の前まで迫っていた。


(あ……ぶつかる!)


慌てて身をよじり、すんでのところで彼女を避ける。

風を巻いてすれ違ったその瞬間──


「……え?」


背後から、戸惑いを含んだ声が聞こえた。

振り返ると、彼女が立ち止まり、目を見開いて僕を見つめている。


「あなた……私が見えるの?」



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