増援



 澄珠は必死に力を込めるが、巨大な花に呑み込まれた千夜の身体は、石像のように動かなかった。冷たい花弁の縁が千夜の肌に食い込んでいる。

 背後で、栗萌の甲高い笑い声が洞窟のような神殿に響きわたった。


「これまでその方が他の女の隣で笑っていたのをただ眺めてただけのくせに、今更足掻いてどうしたんですかぁ~? お姫様なのに、みっともなく王子様にしがみついて、はしたないのでは?」


 確かに、これまで澄珠は、琴の横で笑っている千夜を柱の影からただ見ているだけだった。自信がなかったからだ。自分などよりも琴の方が、花神の花嫁にふさわしいのではないかという思いが常にどこかにあった。

 けれど、相手が栗萌なら話は別だ。


「貴女は〝花神に愛される自分〟に執着しているだけで、千夜様がお好きなのではないわ! そんな人に、千夜様のことは渡さない!」


 澄珠は栗萌に聞こえるように声を張り上げた。

 直後、栗萌が澄珠を、おかしそうに嘲る。


「負け惜しみを。――術を解いたのは得策ではなかったですね。あなたがたは、偽りの花に見つかりましたよ」


 刹那、偽りの花の花弁がざわめき、無数のつるが生き物のように蠢き始めた。大地を割るような音とともに、それらは一斉に澄珠と朝風へ襲いかかる。


「……っ!」


 鋭いつるの一本が澄珠の肩を掠め、着物の布を裂き、鮮血が飛ぶ。痛みと同時に体勢を崩した澄珠は床へと叩きつけられ、息を詰まらせた。


「お忘れですか? ここは神殿。花神とその正式な花嫁以外は立ち入ることを許されぬ場所です。お二人とも、偽りの花のお怒りに触れましたよ。生きては帰れないでしょうね」


 栗萌がくすくすと喉を鳴らして笑う。

 耳元でつるが風を切る音が響き、冷や汗が背筋をじわりと濡らした。しかも、激痛で術の発動に集中できない。


「澄珠様!」


 栗萌を取り押さえていた朝風が、そこから手を離し、澄珠のもとへと駆け寄ってきた。その影が澄珠の前に躍り出る。朝風は即座に刀を抜き、迫り来る無数のつるへと身を挺して立ちはだかった。

 次々と襲いかかるつるを弾き返す音が激しく響き、火花のように水滴や花粉が散った。


 視界の端で、栗萌が冷笑を浮かべながら悠然と立ち去っていくのが見えた。その背筋はひどく優雅で、振り返ることすらしない。


「精々、惨めに野垂れ死んでくださいね」


 ――まずい。このままでは取り逃す。

 ここで栗萌を逃がせば、後で何を仕掛けられるか分からない。ぞっとする未来が脳裏を掠める。

 澄珠は痛む腕を押さえ込みながら、必死に呼吸を整え、再び術を発動しようと集中する。しかし、それよりも早く、朝風の動きが目に見えて鈍っていった。つるは一本二本ではない。数えきれないほどの蔦が一斉に襲い掛かり、刀の動きの隙間を縫っては彼の体勢を崩していく。

 このままでは全員死ぬ。澄珠は直感でそう悟った。胸の奥に凍りつくような焦りが広がる。

 その瞬間だった。



「――――わたくしのお姉様に、何をなさっているのかしら」



 偽りの花を威圧するような、鋭い声が空気を裂く。

 直後、神殿の空間全体を揺らすほどの水の奔流が放たれ、荒れ狂うつるたちを一掃した。飛沫が雨のように降り注ぎ、澄珠の頬を濡らす。


 立ち去りかけていた栗萌が、驚いたような顔で振り返る。

 神殿の入口、その影に立っていたのは――琴と、その護衛である夕映だった。神殿の内に射し込む外光を背負い、佇んでいる。


「神殿の扉が誰もいないのに勝手に開いたと、外で騒ぎになっているわ。やはりお姉様だったのね」


 琴は長く艶やかな黒髪に白い指を通し、緩やかに払った。

 偽りの花のつるたちが、次の獲物を見定めたかのように琴へと一斉に襲いかかる。しかし琴は眉一つ動かさず、涼やかな顔で手を掲げると、鋭い水の光線を放った。奔流は青白くきらめきながら空気を切り裂き、つるを絡め取り、その動きを一瞬で封じ込める。

 水滴が飛沫となって辺りに散り、澄珠の頬や千夜を絡める花びらに再び降り注いだ。

 琴は歩みを進め、神殿の中央へと近付いてくる。その視線はまず、花に半ば飲み込まれつつある千夜に注がれた。動揺からか、瞳が淡く揺れる。しかし琴はすぐに表情を引き締め、今度は冷ややかな光を宿して栗萌へと向き直った。


「で、これは一体どういうこと? 説明していただけるかしら?」


 琴の厳しい声音に、栗萌の肩がわずかに震える。それでも必死に虚勢を張るかのように、彼女は言葉を返す。


「あなたこそどういうことですか? 神殿への立ち入りは死罪ですよ?」


 声は上ずっていたが、なおも食い下がろうとする。

 琴の唇がふっと弧を描いた。笑みはあまりに冷ややかで、氷よりも冷たかった。


「そんなことよりも大罪を犯している側が何を言っているの? 貴女には元々疑いをかけていたけれど、お姉様の夕映への発言のおかげで確信が持てたわ。か弱そうな面をして、まさかこんなことまでするとはね」


 言葉に合わせるように、琴は後ろ、夕映の方へと視線を流す。

 夕映が静かに頷き、神殿の扉の影から一人の男を引きずり出した。


 その姿を見た澄珠は、思わず息を呑む。

 男の顔は――千夜と瓜二つ。ただし、その顔は相当殴られたのか腫れ上がり、原形をとどめぬほど歪んでいる。



「こいつ――千夜様の偽物が、全て吐いたわよ。貴女が偽りの花を騙してるってね」



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