朝風



 夢を見ていた。

 幸せな夢だった。

 幼い自分と千夜が、陽光に照らされた、蝶の舞う花の庭を駆け回っている。

 走っている途中で石に足を取られ、地面に転んでしまう。膝に擦り傷ができ、涙が滲んだ。

 けれど、すぐに影が差す。顔を上げると、千夜が手を差し出してくれていた。

 澄珠はその手を握り返し、立ち上がった。温もりが掌に広がり、痛みさえ薄らいでいく。

 立ち上がった途端、千夜が再び走り出す。澄珠は追いかける。子どもの頃と同じように、楽しげに笑いながら。

 けれどいくら走っても、その背中に追いつけない。足を必死に動かしても、距離は縮まらない。逆に背中はどんどん遠ざかっていく。

 息が苦しいほど走っても、千夜の声はもう聞こえなかった。

 最後に見えたのは、小さな背中が光に溶けるように消えていく姿。

 その瞬間、澄珠の胸の奥に、どうしようもない寂しさが押し寄せた。


 ――行かないで。


 声を上げようとした時、夢は暗闇に閉ざされた。




 目が覚めると、澄珠はひんやりとした土壁の倉の中にいた。何度も口に冷たく苦い液体が流し込まれる。

 むせ返りながら顔を上げると、そこにいたのは見覚えのある男だった。五十代半ば、日に焼けた浅黒い肌。武人として鍛え上げられた体格で、黒ずんだ神官の装束に身を包んでいる。背に結った髪には白いものが混じっているが、その佇まいには威厳があった。


 ――朝風だ。

 幼い頃、千夜の傍らで護衛として常に控えていた男。澄珠にとっても、父のように慕っていた存在である。


「遅くなり、申し訳ありません。澄珠様」


 低く響く声に、夢の中にいた意識が現実へと引き戻される。


「わ……私は一体……」

「三日間ここに閉じ込められていました。屋敷の女中から、澄珠様が帰ってこないという報告があってから、大規模な捜索が行われたのです。三日間、誰も貴女様のことを見つけることができませんでした。が、とある方から私へ報告があり……貴女の場所が分かりました」

「とある方……?」

「お名前を伝えることはできません。今飲ませていたのは解毒薬です。時間はかかりますが、影響は抜けていくでしょう。……間に合ってよかった」


 その言葉を聞いた途端、張り詰めていた心が崩れ落ち、澄珠の目から涙がぽろぽろと溢れた。朝風に飛びつこうとしたが、両腕は荒縄で固く縛られている。


「貴女様に毒を盛ったのは、誰ですか」


 縄を解きながら問われ、澄珠は嗚咽をこらえながら答えた。


「く、栗萌様、に……」


 朝風は目を伏せ、考え込むように顎に指を当てた。


「……やはり。栗萌様の術は、幻術です。相手の認識をすり替えられます。目の前の人間を、まったく違う人間の姿に見せることができるのです」


 澄珠は信じてもらえたことに再び涙した。花嫁候補の術は、基本的に秘匿されるものだ。琴の場合は放火の件で名を馳せ、水を操る術であることが知られることになったが、栗萌の術については考えたことがなかった。


「では……彼女は、自分のことを他人の姿に見せることができるのですか?」

「そればかりではありません。他人の姿を、別の人物の姿に書き換えることも可能だと考えられます。最初は私も、栗萌様が千夜様に姿を変えているのだと疑って動向を探っていました。ですが、今いるあの千夜様は、栗萌様が屋敷にいる時も常に存在する」


 朝風の声が重く落ちる。

 澄珠ははっと息を飲んだ。〝今いるあの千夜様〟と表現するということは、彼もまた、千夜の様子がおかしいと気付いているのだ。


「つまり栗萌様が、千夜様ではない誰かを、千夜様に見せかけているのです」

「栗萌様が全ての元凶ということですか……? なら、今すぐそれを報告しなければ……」

「貴女様には申し訳ありませんが、栗萌様は花神の花嫁候補というお立場です。そう簡単に断罪することはできません。それに……」


 低く落ち着いた声で、朝風は言葉を選ぶように続けた。


「他の神官は皆、今いる千夜様を信じています。事実として今、花神として扱われているのは彼なのです。私一人が声を上げたところで、状況を覆すことはできない段階に来ています。下手に栗萌様へ手を下せば、私自身の立場すら危うくなるでしょう。今はどうか身を隠し、決して彼女に逆らわないでください」


 澄珠は震える唇で問いかける。


「この後宮で、一体何が起こっているのですか?」


 縄を解き終えた朝風は、ゆっくりと立ち上がった。背を向け、澄珠に対して何も答えない。


「……私には、教えていただけないのですか?」


 縋るような澄珠の声に、彼は短く溜め息を吐いた。


「……貴女に言えることは限られています。私がただ一つ申し上げられるのは、もうこの件に関わらないでください、ということです。もうこれ以上、後宮で起きていることを探らないでください」


 冷たい言葉が、澄珠の胸に重く沈んだ。


「……千夜様は? 本物の千夜様は、どこにいらっしゃるのですか?」


 必死に問いかけ、朝風の袖を掴む。幼い頃から父のように慕ってきた男に、最後の望みを託す。

 しかし朝風は、静かに首を振った。


「……言えません」


 その一言に、澄珠の心がざわりと揺れる。だが諦められない。


「わ、私……お会いしたかもしれないのです。本物の千夜様に。花影と名乗っていた方が、花庵にいらっしゃいました。昔、花嫁候補が自分を磨く場として使っていた建物です。きっと、そこに今もいらっしゃいます……! そうでしょう?」


 朝風は淡々と告げてくる。


「花庵は随分前に取り壊されましたよ。今は存在しません」

「あるんです!」


 澄珠は涙を滲ませながら叫んだ。


「私、この目で見たんです。どうか、付いてきてください」


 そう言って、澄珠は強引に朝風の手を取った。


 外はまだ朝靄が残り、土の匂いが立ちこめていた。そこは栗萌の屋敷から少し離れた、人通りのない一角だった。草の根を踏み分けながら、澄珠は懸命に足を進める。

 花庵にいる花影が本物の千夜なら、問いたださねばならない。後宮で何が起きているのか。何故隠していたのか。この混乱をどうすればよいのか。全てを。

 澄珠は必死に歩き続けた。


 けれど、辿り着いた先で彼女を待っていたのは――無だった。


 そこには何もなかった。

 澄珠の記憶にある立派な屋敷も、磨き込まれた廊下も、花影の姿も。全て、影も形もない。


 ただ荒れ果てた土と、ところどころに残された石の基礎があるだけだった。



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