食い違い
「……私、琴の言う通りだと思ったの」
澄珠の言葉に、「は?」と琴の瞳が訝しげに細められる。
「私は、役立たずだって。私もそう思う。琴の方が、土地を統治する千夜様の隣に立つにふさわしいっていうのも、私はただ幼い頃彼の隣にいただけってことも、全部その通り。だから、その方が千夜様のためになるなら、琴が千夜様の正式な花嫁になったっていいと思った。……でも」
澄珠の拳が、膝の上で固く握られる。
「琴が千夜様の害になるなら、容赦しない」
一瞬、琴の美貌が凍り付いた。
直後、驚愕と嘲笑が入り混じったように、その唇が歪む。
「容赦しないって何? 人の目的を知った途端に随分強気ね。弱みでも握った気になって、得意になっちゃったのかしら?」
琴は勝ち誇ったように顎を上げる。
「わたくし達の真実を知ったところで、お姉様に今からできることなんて何もないわ。千夜様に愛されているわたくしと、嫉妬心からわたくしに嫌がらせをしたという噂が立っているお姉様。皆はどちらを信じるかしらね?」
その通りだ。今の澄珠では、大多数に信じてもらえないだろう。花神を奪われた花嫁候補が、必死に何かを言っていると、滑稽に思われるだけだ。
だから――琴たちを止めるためには、もっと確かな証が必要だ。
澄珠は、これ以上ここで言葉を交わしても時間の無駄だと判断して立ち上がり、戸に手をかける。
琴に背を向けたまま、どうしても一つだけ、確かめたくなった。
「……琴。子供の頃、よく一緒に近くの川で川遊びをしたのを覚えてる?」
一瞬の沈黙が流れた。
しかしすぐに、嘲るような笑い声が返ってくる。
「なあに? そんなの昔の話でしょう。今持ち出されたって困るわ。わたくしはもう、お姉様と遊ぶ気なんてないもの」
その回答に、澄珠はわずかに目を見開き、そして静かに瞼を伏せた。
「……そう」
短く呟くと、澄珠は戸を引き開け、個室の外へと歩み出た。
――やはりおかしい、と思いながら。
◇
夜が明ける。
自分の屋敷で朝を迎えた澄珠は、女中への短い書き置きだけ残して早朝から動き始めた。
まだ露の残る道を早足で進む。
向かう先は神殿の西、琴の屋敷である。
琴は昔から朝に弱い。早起きが苦手だ。ゆえにこの時間なら琴抜きで、琴の幼なじみの夕映と話すことができるはずだと踏んだ。
そして、予感は当たった。琴の屋敷には、庭の見張りに立つ夕映の姿があった。白と青の神官の制服に身を包み、背丈は澄珠の記憶よりずっと伸びていた。肩周りも厚くなり、剣を支える腕は逞しい。幾多の訓練を積んできたことが一目で分かる。
じゃり、と澄珠が砂利を踏んだ音に、夕映の体が反応した。その手は迷わず刀の柄を掴み、その刃を澄珠へと向ける。
「お前……っ、何でここに」
夕映が怒りを露わにする。
幼い頃は澄珠とも無邪気に笑い合っていたはずの夕映。だが今、向けられる眼差しは氷のように冷たい。琴ばかりか夕映からも敵意を向けられるとは思っておらず、澄珠は一瞬、狼狽した。
「どの面下げてここへ来た!」
怒鳴り声が朝の静寂を裂く。返事をする間も与えられない。
「また琴をいじめに来たのか!」
「……ち、違う。夕映、聞いて」
必死に言葉を繋ぐ澄珠に、夕映は痛ましげに顔を歪める。
「そんなやつじゃなかっただろ、お前は……。どうして変わっちまったんだよ」
夕映が悲しげに呟く。彼も澄珠の屋敷の女中たちのように、あのような噂を信じ込んでしまっているらしい。
「あれは、琴が流した噂で、私はいじめなんてしてな――」
「嘘つくな!」
夕映が遮る。怒声とともに、剣先が揺れた。
「俺はこの目で見たんだぞ! お前が、琴の頬を打つのを!」
澄珠の呼吸が止まり、足が地面に縫いつけられたように動かなくなる。
――――
澄珠は夕映の顔を凝視した。嘘をついているようには見えない。
「……それは、確かに私だったの?」
「俺が見間違うはずないだろ。顔も背丈も髪型も、間違いなくお前だった」
脳裏をかすめるのは、一つの恐ろしい可能性。
そもそも、澄珠が琴をいじめたという事実無根の話が、何故あれほど広く後宮内に出回り、皆から信じられているのか。実際に、複数の目撃情報があったのだとしたら?
思考が乱れ、澄珠は自分でも気付かぬほど弱い声で呟いていた。
「……琴も私に嫌がらせを……」
「琴が嫌がらせ? 何言ってる?」
「琴が、私の屋敷へやってきて、私の頬を打ったの。これはその時、台にぶつかって香水瓶が落ちてきた時の傷で……」
澄珠は頬の傷跡に指を添え、夕映に示す。
しかし、夕映は怪訝そうに顔を歪めるばかりだった。
「本当に何を言ってるんだ? 琴はこの後宮に来てから一度も、お前の屋敷には行っていない。そもそも朝から晩までずっと花神様と一緒にいるのに、お前の元へ行く暇があるわけないだろ」
喉が詰まり、言葉が出ない。
基本的に琴につきっきりであるはずの護衛が言うなら、間違いないだろう。
目の前の事実と、これまでの記憶が、恐ろしいほど食い違っている。
「……昨日の夜、琴はどこにいた?」
澄珠の声は震えていた。
「はあ?」と、夕映が訝しげに眉を潜める。
「私、昨日、琴と会ったの。茶房で。その時、琴は何をしてたの?」
切羽詰まった問いかけに、夕映はようやく澄珠の様子にただならぬものを感じ取ったのか、少しだけ声を落として答えた。
「……昨日は花神様と出かけていた。昼から夕刻までずっと一緒で、夜は疲れたのか、屋敷に戻ってすぐ眠ったはずだ。茶房なんて、行ってねえよ」
その瞬間、澄珠の全身に衝撃が走った。
――じゃあ、あの時、自分が対峙していたのは誰だったのか。
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