琴への疑念
以前琴に言われたことを思い出す。
――『お姉様がここから出て行かない限り、死ぬまで苦しめてあげる』
思えば琴は、一貫して澄珠を後宮から追い出そうとしている。
よく考えれば、既に十分に愛されている琴が、他の花嫁候補をいじめて蹴落とす必要がない。
琴の目的が、澄珠をいじめて苦しめることではなく、澄珠を早めにここから追い出すというところにあるとするならば。
自分たちはお互いに、何か大きな勘違いをし合っているのかもしれない。
屋敷へ戻る道中、小雨が降っていた。
雲隠れの術を解き、ふと顔を上げると、女中の一人が戸の前でぽつんと立ち尽くしている。灯籠の明かりに照らされたその顔は、澄珠をその目に捉えると瞬時に安堵に染まる。
何故こんな時間まで外で立っているのかと、澄珠は驚いて問うた。
「どうして外にいるのですか?」
「澄珠様が部屋にいらっしゃらなかったので、ここで立って待っていろと他の者に言われまして……」
彼女は女中の一人だが、これまで澄珠へのいじめに積極的に加わったことのない、気弱な性分である。他の気の強い女中たちに命じられ、中に戻るわけにもいかず、ずっとここで澄珠の帰りを待っていたのだろう。女中たちが澄珠のことをいじめなくなった分、その矛先が彼女に向けられているのかもしれない。
こんな夜更けまで立たせてしまって申し訳なく思いながら、澄珠は玄関でそっと靴を脱ぎ替え、薄暗い廊下へと足を踏み入れた。女中は澄珠の一歩後ろを静かに付いてくる。
澄珠は思い切って振り返り、女中に声をかけた。
「……あの、ずっと聞きたかったのですが、何かあったのですか?」
女中は驚いたように瞬きをし、すぐには答えなかった。そして、「……何か、とは?」と、躊躇いがちに問い返してくる。
澄珠はずっと気になっていたことを、勇気を振り絞って続けた。
「いえ、このところあまりにも、皆さんの態度が変わったと感じておりまして」
しばしの沈黙の後、女中は弱々しく答えた。
「……朝風様から通達があったのです」
その声音はどこか怯えを含んでいるように感じる。
「我々の職務怠慢は既に花神様も把握している、と。花嫁候補を粗略に扱うことは、すなわち花神様を侮ることに等しいと」
側近である朝風からの言葉は花神からの言葉と同義だ。女中たちの態度が一変した理由がよく分かった。しかし、忙しいはずの朝風が、何故わざわざ澄珠の屋敷の状況を探り、文をしたためるような真似を……という不可解さは残る。
女中は心底案じるように眉を寄せ、声を潜めて言った。
「澄珠様はどちらへ行かれていたのですか? 護衛もお付けにならずに夜中に外へ出るなんて、危険でございます」
澄珠は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。……少し外の空気が吸いたかったのです」
本当は琴の話を誰かにしたかったが、そう軽々しく口にできるような話題でもない。後宮という狭い世界で、一度口にしてしまえば、それは噂となって一気に広まってしまうだろう。花嫁候補が神官と恋愛関係にあるかもしれないなど、口が裂けても言えない。
女中はそれ以上咎めることなく、ただ疲れたように小さく息をついた。
これまでは女中たちに放置されていたおかげで、興味を持たれていなかったおかげで、良くも悪くも自由に動けていた。
自分が屋敷からいなくなれば、この女中がまた外で一人待ち続けることになる。
――もう軽率に動けない。
足枷が一つ増えたように感じられた。
◇
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの頃、澄珠はふと目を覚ました。色々と考えすぎて、どうも眠りが浅い。
胸の奥に重く沈むのは、やはり昨夜の琴の言葉である。
(琴からしてみれば、私は後宮の者たちにさらわれたようなもの。琴は私が千夜様のことを本気で好きだと知らない。もしかすると、私に同情して、私をここから逃がすために、自分の恋を捨ててまで花神に嫁ごうとしているのかもしれない……)
そうだとすれば、やはり話し合わなければならない。しかし、容赦なく頬を打ってきた琴の恐ろしい顔を思い出すと、対話をしたい気持ちよりも恐怖の方がやはり勝つ。
澄珠は寝間着のまま、ふらりと庭へ出た。
夜露を含んだ草の香りがまだ濃い。
広々とした庭には花々が咲き誇っている。花神の後宮には季節がなく、四季折々の花が同時に咲いているのだ。
朝日に照らされた薄紅の芍薬は、まるで頬を染めた乙女のようにふっくらと花弁を重ね、菖蒲は凛と背を伸ばして風に身を揺らしている。白椿は昨夜の雨粒をまだ花弁に宿し、光を受けて玉のように輝いていた。
澄珠は立ち止まり、ゆっくりと順番に花々を目に映す。
(私は姉なのに、琴が何を考えているのか分からない……)
どれほど眺めても答えは花の中に隠れてはおらず、澄珠は一人、静まり返った早朝の空気の中で溜め息を吐いた。
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