第十二話 日常の異変

 鴉屋を出た後も、詩織の頭は混乱していた。


 戒という男の存在、彼が語った非現実的な言葉、そして明日の零時にもう一度来いという、奇妙な命令。


 そのすべてが、彼女の日常からあまりにもかけ離れていた。



 都内にある彼女のマンションは、彼女自身の性格を映したかのように、ミニマルで整然としていた。

 余計な装飾はなく、本棚には仕事関係の書籍が分野ごとにきっちりと並べられている。

 この、論理と秩序に満ちた空間だけが、彼女の正気を保つための最後の砦だった。


(様子を見るって……一体、何をするつもりなの)


 詩織は、燻るような不安を洗い流そうと、シャワーを浴びることにした。

 

 脱衣所で服を脱ぎ、洗濯機へ入れる。

 踏み入れたバスルームの空気はどこか冷んやりとしていた。


 カランを捻りお湯を出す。

 熱いシャワーが、緊張でこわばった肩をほぐしていく。

 目を閉じると、戒のあの鋭い眼光が脳裏に浮かんで消えた。


 その時だった。


 パッ、とバスルームの電気が一瞬消え、すぐに点灯した。


 古い蛍光灯でもあるまいし、と詩織は訝しんだ。


 気のせいか、シャワーの温度が少し下がったような気もする。


 ザアザアと湯が流れ落ちる音に混じり、何か、別の音が聞こえた気がした。


 囁くような、あるいは、壁の向こう側で何かを擦るような音。


 詩織はシャワーを止め、耳を澄ました。


 しん、と静まり返ったバスルーム。


 聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。


(……考えすぎね)


 疲れているのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。


 だが、その直後、再び電気が激しく明滅を始めた。


 それと同時に、部屋全体の空気が、ずしり、と重くなった。

 まるで、水中にいるかのように、空気が密度を増し、肌にまとわりついてくる。


 恐怖に駆られ、詩織は急いでシャワーを終えると、バスローブを羽織って洗面台の前に立った。


 曇った鏡を、手のひらで拭う。

 そこに映った自分の顔は、恐怖で青ざめていた。


 ――そして、その背後、肩越しに。


 鏡の中の暗がりに、二つの、赤い光が、ぼうっと浮かび上がって、一瞬で消えた。


「ひっ……!」


 小さな悲鳴を上げ、詩織は勢いよく振り返る。

 しかし、背後には誰もいない。いつもの、殺風景なバスルームがあるだけだ。


 気のせいではない。確かに見た。


 ガタガタガタッ!!


 突然、リビングの方から激しい物音がした。


 詩織は、バスルームを飛び出した。


 すると、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 本棚に並んでいた本が、まるで誰かに突き飛ばされたかのように、次々と床に散乱していく。


 固く閉めていたはずの窓が、内側から激しく叩きつけられるように、ガタガタと不気味な音を立てて震えている。


 ポルターガイスト。


 小説や映画の中でしか知らなかったその現象が、今、目の前で起きている。


「何!? 何なのよ、いったい!!」


 詩織の絶叫が、虚しく部屋に響く。

 恐怖で足がすくみ、その場から一歩も動けない。


 彼女の秩序の世界が、目に見えない何者かによって、乱暴に破壊されていく。


 その時、部屋の隅の、最も暗い影が、蠢いた。


 それは、ただの影ではなかった。

 黒いインクが染み出すように、闇が人の形を取り、歪に立ち上がる。

 手足は異様に細長く、頭部には、あの赤い目がいくつも、ぎょろり、と光っている。


 悪鬼。


 澪の残した御守りから感じたあの凍えるような気配を纏っている。


 それが今、実体を持って目の前に現れたのだ。


 悪鬼は、詩織に引き寄せられるように、ギチギチと関節を鳴らしながら、ゆっくりと近づいてくる。

 その赤い目は、獲物を見つけた蛇のように、執拗に彼女を捉えていた。


(逃げなきゃ……!)


 詩織の頭に、鴉屋を出る間際に戒から渡された、一枚の紙札のことが浮かんだ。


「気休めだ。無いよりはマシだ」とぶっきらぼうに渡された、護符。


 それは、リビングのテーブルに置いたバッグの中に入っている。


 そこまで行かなければ。


 しかし、金縛りにあったように、足が床に縫い付けられて動かない。


 恐怖が、思考も、身体の自由も、全てを奪っていた。

 影の手が、ぬう、と詩織に向かって伸びてくる。

 冷たい瘴気が、彼女の頬を撫でた。


 もう、駄目だ。

 そう思った、その瞬間だった。


 ――ガッシャアアアアン!!


 凄まじい破壊音と共に、リビングの窓ガラスが粉々に砕け散った。


 そして、夜の闇を切り裂いて、一つの黒い影が部屋の中へと飛び込んできた。


 鴉羽 戒だった。


「キシャアアア!」


 悪鬼は、突如現れた侵入者に、甲高い威嚇の声を上げた。

 しかし、戒はそれに一切動じない。

 彼は、詩織を一瞥すると、舌打ちした。


「言っただろ。『肌身離さず持っておけ』と」


 その言葉と同時に、戒は左腕――黒鉄の義手を悪鬼へと突きつけた。

 義手の指先が開き、その掌に、闇そのものが渦を巻いて凝縮する。


「――塵芥が。人様に手を出すんじゃねえ」


 次の瞬間、義手の掌から、黒い炎が奔流となって放たれた。

 

 それは、物理的な法則を無視した、呪詛の劫火。

 魂や霊体といった、この世の理から外れたものだけを焼き尽くす、呪いの炎。


 黒い炎は、部屋の照明を喰らい、影であるはずの悪鬼の姿を、一瞬だけ禍々しく照らし出した。


「ギィイイイイッ!?」


 黒炎に触れた辻神は、悲鳴を上げ、その身体を内側から燃やし尽くされるように、端から黒い粒子となって崩壊していく。


 その影は、完全に消え去る直前、ケタケタ、という嘲笑うかのような気配だけを残して、霧散した。

 

 ぼとり、と腐った鳥の亡骸が落ちる。


 嵐のような出来事が過ぎ去り、部屋には静寂が戻った。


 残されたのは、鳥の亡骸、粉々になった窓ガラスと、床に散乱した本、そして、呆然と立ち尽くす詩織と戒の二人だけ。


 詩織は、目の前で起きた全ての出来事が信じられず、ただ震えていた。

 自分の合理的な世界は、今夜、完全に、そして暴力的に破壊された。


「……あれは……一体、何だったの……?」


 かろうじて絞り出した声は、ひどくかすれていた。


「心配になって後を見たが追ってみたが、案の定だったな」


 戒は、割れた窓から吹き込む夜風に髪をなびかせながら、冷ややかに、しかし断言した。


「あれはお前に移った、黄泉の穢れに引き寄せられた悪鬼だ。言わば、大物の匂いを嗅ぎつけたハイエナみたいなもんだ」


 彼は、震える詩織へと歩み寄り、その目を真っ直ぐに見据えた。


「橘詩織。これで、わかっただろ。お前の妹が足を踏み入れてしまったのは、どういう世界なのか。お前の妹は、この常識外れの闇に囚われている」


「助け出すには、お前の協力が必要だ。お前という『縁』がな」


 戒の言葉は、もはや詩織の理性にではなく、その魂に直接語りかけていた。

 恐怖と混乱の中、しかし、彼女の瞳には、新たな光が宿り始めていた。

 


 だが、それもつかの間、戒の表情が赤くなる。


「えっと、すまない……まずは何かもらえるか羽織ってもらえるか?」


 その後、部屋に響いたのは悲鳴と強烈なビンタの音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る