第十一話 詩織の叫び
鴉屋の店内は、奇妙な静寂に包まれていた。
店の奥、戒の私室があるであろう暖簾の向こうから、時折、金属製の道具がかすかに触れ合うような、あるいは薬草をすり潰すような音が聞こえてくる。
戒は、カウンターに置かれた澪の御守りを、まるで汚物でも見るかのように指先でつまみ上げると、無感情な瞳で詩織に問いかけた。
「お前の妹、九州で何に触れたか、心当たりは?」
「……古文書にあった、
「
戒は、納得したように、しかし全く愉快そうでもなく頷いた。
彼は御守りをカウンターに置くと、腕を組む。
「橘詩織、だったか。一つ言っておく。お前の妹の失踪は、普通の事件じゃない。妹は、神隠しか、あるいはもっとタチの悪い何かに『操られた』。この御守りにこびりついた穢れがその証拠だ」
穢れ。
神隠し。
戒の口から紡がれる、あまりに非現実的な言葉の数々に、詩織の中で必死に保っていた理性の壁が、悲鳴を上げた。
「……やめてください」
詩織の声は、震えていた。
「穢れ?神隠し?馬鹿げています。妖怪とか、幽霊とか、そんな非科学的な話を、私は信じません」
彼女は、自分に言い聞かせるように、はっきりとそう言った。
だが、その声には、かつてのような揺るぎない自信は欠片もなかった。
語尾は弱々しく、彼女の瞳は不安げに揺れている。
それは、溺れる者が必死で掴もうとする、最後の浮き木のような、虚しい抵抗だった。
その様子を見て、戒の口元に、冷たい皮肉な笑みが浮かんだ。
「へえ。信じないと」
彼は、面白がるように、しかしその目は笑っていなかった。
「じゃあ、なんでわざわざこんな胡散臭い店に来たんだ? 非科学的な話を信じねえ、ご立派なキャリアウーマンサマが、一体ここに何を期待した?」
鋭い言葉が、詩織の心の最も柔らかい部分を抉った。
そうだ、その通りだ。
矛盾している。
自分の行動こそが、何よりも非合理だ。
警察を信じ、科学を信じ、論理的に物事を解決しようとして、何もできなかった。
その果てに、自分はここにいる。
言葉に詰まり、俯く詩織の瞳から、こらえていた涙が、ぽろりと一粒、膝の上に落ちた。
「……っ、わか、らないわよ……!」
絞り出した声は、嗚咽に近かった。
「他に、頼るものがなかったから……!警察も、あの子の仲間も、誰も、私の言葉を真剣に聞いてくれない!私だって、信じたくない!でも、澪は……あの子は、本当にいなくなってしまった……!私には、あの子しかいないのに……!」
編集者としての仮面は剥がれ落ち、そこには、ただ途方に暮れた一人の姉の、悲痛な叫びがあった。
その剥き出しの感情に、戒は一瞬、わずかに目を見張った。
いつも彼のもとを訪れるのは、恐怖か、あるいは下世話な好奇心に満ちた人間ばかり。
だが、目の前の女の涙は、ただひたすらに、妹を想う純粋な愛情から流れている。
それは、戒がとうの昔に失った感情だった。
ふい、と戒は視線を逸らし、気まずそうに頭を掻いた。
「……チッ。泣くな。鬱陶しい」
その口調はぶっきらぼうだったが、先ほどまでの刺々しさは、少しだけ和らいでいた。
彼は、新しい煙草に火をつけると、深く紫煙を吸い込む。
「忠告してやる。これ以上、関わると後悔するぜ。お前が信じてる、その『科学的』で『合理的』な日常には、二度と戻れなくなる。それでもいいんだな?」
詩織は、涙に濡れた瞳で、まっすぐに戒を見つめ返した。
そして、こくり、と小さく、しかし力強く頷いた。
妹を取り戻せるのなら、どんな代償も払う。その覚悟が、彼女の目には宿っていた。
戒は、その答えに、短く溜息をついた。
「……わかった。約束はできねえが、とりあえず、お前の妹の足取りを追ってみる」
御守りにこびりついた、あの忌まわしい黄泉の穢れ。
黄泉の穢れの気配を放置しておくことは、戒自身の信条が許さなかった。
もはや、この一件は詩織だけの問題ではない。
「今日は帰れ。そして、明日の零時になったらもう一度ここに来い。お前の妹が今どうなっているか、少し『様子』を見てやる」
「様子を……?どうやって?」
「非科学的な方法で、だ」
戒は、それ以上何も説明しようとはせず、顎で店の出口を指し示した。
有無を言わさぬ、退去命令だった。
詩織は、まだ聞きたいことが山ほどあったが、彼の纏う空気がそれ以上の質問を許さなかった。
彼女は一度、深く頭を下げ、踵を返して出口に向かった。
「待て」
背後からかかったぶっきらぼうな声に、詩織が振り返る。
戒はカウンターの中から一枚の古びた和紙を取り出し、無造作に彼女へと差し出した。
そこには、朱色で鳥のようにも文字のようにも見える、奇妙な文様が描かれている。
「……これは?」
「気休めだ。今夜ここに来るまで、肌身離さず持っておけ。お前にも、妹と同じ匂いが少しだけ移ってる。厄介事を引き寄せても知らんからな」
非科学的だと、ついさっきまで自分が否定していたはずのもの。
詩織は一瞬ためらったが、彼の有無を言わさぬ視線に促され、震える手でそのお札を受け取った。
紙だというのに、なぜか、じんわりと人の体温のような温かみが指先に伝わってくる。
「……ありがとうございます」
かろうじてそれだけを言うと、詩織は再び深く頭を下げ、今度こそ夢遊病者のような足取りで鴉屋を後にした。
カランコロン、とチャイムが鳴り、再び店内に静寂が戻る。
一人になった戒は、カウンターの上に残された御守りを、再び指先でつまみ上げた。
そして、それを光に翳すように見つめ、吐き捨てるように呟いた。
「……こりゃ、間違いねえ。
東京に広がり始めた穢れの元凶。
その一つが、今、この手の中にある。
「面倒なことになりそうだ……」
彼がそう呟いた瞬間。
左腕の義手が、ジクリ、と疼きを訴えるように、微かに震えた。
御守りに宿る濃密な黄泉の穢れに、義手内部の呪いが激しく共鳴しているのだ。
不穏な予兆が、彼の全身を駆け巡っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます