2・美貌の令息が見つめる先は
大広間から、王立楽団の奏でる弦楽器の旋律がきこえる。明るく軽快な円舞曲だ。
貴婦人たちの衣ずれの音に混じり、父親のおどおどしたエスコートにまかせて広間へ向かう。裾が大きくふくらんだドレスや踵の細い靴に慣れなくて、つい足元ばかり見てしまうミュリナだったが、ふと視線を感じて顔をあげた。
さっきすれちがった赤いドレスの令嬢が、扇で口元をかくして、知り合いらしい令嬢になにか言っている。
――自分のことでよくないことを言われているときは、なんとなくわかるものだ。ドレスが野暮ったいとか、髪型が古いとか、そんなことだろうか。彼女たちの装いの凝りようを見れば、そんな気がする。
こそこそ話の令嬢たちの前を通り過ぎるとき、「造花の首飾りなんて……」「セレイア貴族として恥ずかしくないのかしら」という会話がきこえてきた。自分の地獄耳がおそろしい。きっと静かな森の屋敷で小鳥のさえずりばかり聞いて育ったから、生まれつき聞こえのいい聴力がいっそう冴えたのだ。まったく。
(ふんだ。今にみてらっしゃい)
自分が野暮な田舎育ちなのは重々承知だ。舞踏会は令息令嬢の結婚相手さがしの場でもあるのだから、みんな自分の見栄えが他人より優れているか否か、気になってしかたがないのもわかる。セレイアでは豪華な宝石が家の格式を如実にあらわすから、アクセサリーをあれこれ批評したくなるのもわかる。
そんなものは全部承知で来た――つもりではあったけれど。
装いの残念さは、予想以上にマイナス点が大きかった。
王都にいる間滞在している大叔母の家で鏡を見たとき、舞踏会用に装った自分のドレス姿に「これならいける」と思ったミュリナである。まんざらではないと思ったのに……王都の洗練された令嬢たちの中では、まるで孔雀の群れにまぎれこんだスズメだ。
これでは、有力貴族の息子をたぶらかせない。
当初の計画では、自分に惚れこんだいい家の令息に、エモンティエ家の計画をふきこんで協力者に仕立て上げるつもりだったのに!
(う~ん。世の中そう甘くはないわね……)
だまりこんだミュリナを気遣ってか、エモンティエ伯が顔をのぞきこんできた。
ミュリナは「大丈夫よ」と答えるように顔を上げ、父に向かってにっと笑った。
エモンティエ家は伯爵という位を持ちながらも、あるのは由緒だけで資産も名誉もない貧乏貴族である。貧乏貴族ゆえ注目もされないまま、父はひっそりとある研究を進めている。極めればセレイア王国最大の問題を解決できる研究だ。
そんな父を母マノンは敬愛している。
ミュリナだっておなじだ。
舞踏会へは、父の研究を世に知らしめる第一歩として来た。
首飾りをけなされたことくらいで、へこんでなんかいられない。
大階段から大広間までの通路はロングギャラリーになっていて、王族の肖像画や歴史画が並べられ、人々の目を楽しませていた。ここで絵を眺めながら貴族どうし語らうのも、社交の大切な一環だ。
しかし、風采のあがらないエモンティエ伯爵親子に話しかけようとする者はいなかった。
けなされたらけなされたでかなしいけれど、無視はもっといたたまれないわ……とミュリナが思っていると、にわかに通路にざわめきが走った。
どうしたのだろうと、ミュリナは階段のほうに目をこらした。
通路に集う人々が、さっと左右に割れる。その真ん中をしずしずと、ひとりの貴婦人がやってくる。まだ歳若い青年に、長手袋に包まれた右手をまかせながら。
(うわあ、きれい……。女神様みたいだわ)
陶器のように白くなめらかな肌に、つややかな白金の髪。繊細で気品のある細面の美貌。白鳥を思わせる細く長い首すじはやや下がり気味の肩の線につながり、女性らしい優美な曲線を描いている。清流のごときアクアブルーの瞳は冷たさを感じるほど澄んで見え、その表情には愛想笑いなど影もない。肌の色つやは若々しいのに近寄りがたい威厳があり、年齢がまったくわからなかった。
銀色のドレスのドレープが、体の動きに流れるように従う。
胸元には、青い宝石で囲んだ大きな大きなダイヤモンド。
まるで氷雪の女神である。
「フォンティネール伯爵夫人だわ」
「いつもながらお美しい」
周囲がもらすつぶやきに、ミュリナは(ああこの方が)と納得した。
リディアーヌ・ジュ・フォンティネール。セレイア王国北部で最も有力と言われる貴族、フォンティネール伯爵家の奥方だ。ということは、彼女をエスコートしている銀髪の青年は、ひとり息子のジュリアスだろうか。フォンティネール家の当主は病の床に伏せっているという噂だ。勢力の大きいフォンティネール家は近く侯爵に格上げされると言われているが、功績の大きかった現当主が病ではどうなるのだろう――
社交の乏しい田舎育ちゆえ貴族にうといミュリナだが、フォンティネール夫人のことは知っている。名門侯爵家の出身で、前王の後妻候補に名があがったこともある人物だ。しかもフォンティネール家の領地は、なんとエモンティエ家の領地のとなりである。となりとはいえ両領地を地図上でくらべてみれば、まるで巨木とその根元に生えたきのこである。その面積の差は桁違い、守るべき民の数も桁違い、富も権力も桁違い。おなじ「伯爵家」といえども、実質的な家格には雲泥の差がある。
おとなりさんとはいえ、気軽に声をかけられる相手ではないので、ミュリナは女神のお通りを黙って眺めていた。不思議なことに、フォンティネール夫人は歩いても足音がしない。衣ずれの音もしない。目には見えても、凡人とはちがう次元にいるのではないかとすら思う。
そんなことを考えていたら、ミュリナたち親子の前を二、三歩通り過ぎてから、フォンティネール夫人の歩みがぴたりと止まった。
ふりかえる女神。その高貴なアクアブルーの瞳が向けられているのは――
「お、おれ?」
ミュリナの父がうわずった声を出した。ミュリナは思わず、自分の手をのせた父の手のひらをピシャリと打った。
(お、おれ?じゃないでしょ、まったく!)
「おひさしぶりね。エモンティエ伯爵」
「は、はい……」
「若い頃とすこしも変わらないわ、あなた。……そちらは、お嬢さん?」
澄みきった瞳に射抜かれるように見つめられ、ミュリナはあわてて膝を折っておじぎした。夫人に向ける自分の顔が、緊張でこわばるのがわかる。
「エモンティエ伯によく似てること。…………つまんない」
は?
最後の言葉はつぶやくようで、耳のいいミュリナにしか聞こえなかった。
(つまんない? つまんないって言った?)
ミュリナは伏せ気味にしていた瞳を見開いた。真正面から、フォンティネール夫人と視線がかち合う。
「あら。瞳の色はマノンとおなじなのね。優しい緑」
夫人が、かすかにほほえんだように見えた。
なにか言葉を返さなくてはと思ったけれど、夫人はすっと体の向きを変えてしまった。息子であろう銀髪の青年のエスコートをうながそうとする。
しかし銀髪の青年は足を止めたまま、なぜかその場を動かなかった。
「ジュリアス」
夫人にやや険のある声で名を呼ばれ、一点を見つめていた青年ははっと我に返った。
そして詫びるように軽く頭を下げると、夫人とともに歩み去ってしまった。
去りぎわに、青年はもう一度そっとこちらをふりかえった。
ミュリナは、自分の頬がひくひくとひきつるのを感じた。
(最初の予定では……最初の予定ではね、ここで彼がみつめるのはわたしじゃなきゃいけなかったわけよ!)
有力貴族のおぼっちゃまに見染められ、エモンティエ家の計画に引きずり込む。
そんな小悪魔になる気満々で、舞踏会へ乗り込んだのに!
(よりによってこっちか――――っ!)
ミュリナは思わず、となりにたたずむ父親をにらみつけた。
少年時代、天使のようだと称賛されたという甘く儚い美貌は、父親となった今でも崩れる気配はなく、無垢で清純な空気をまとい続けている。
(無垢で清純っていうか、このひとは単なる世間知らずだっていうの!)
王都には、恋愛対象に男性を選ぶ男性も数多くいるときいた……。
ジュリアスが見つめていたのはミュリナではなく、この時を止めた美貌のエモンティエ伯爵だったのである。
「お父様、あの銀髪の殿方は、フォンティネール家のお世継ぎジュリアス様ですよね……」
苦虫を噛み潰したような表情で、ミュリナは言った。
「そうみたい……」
「お父様とお母様が、フォンティネール夫人と知り合いだったなんて。わたしの瞳の色がお母様とおなじだっておっしゃったわ」
「マノンと夫人は、若い頃仲がよかったんだよ」
「ええっ!?」
そんな話、ミュリナははじめてきいた。
「でも、仲たがいしてしまったらしくて」
「どうして?」
「……ここではちょっと。またあとで」
エモンティエ伯はささっと周囲に目線をめぐらせた。
リディアーヌ・ジュ・フォンティネール夫人といえば、セレイア社交界の華の中の華。そんな人物に声をかけられたためか、周囲に注目されている。扇で顔を隠してひそひそ話すご婦人多数のところを見ると、あまり好意的に見られているとはいえない。
ミュリナの地獄耳がとらえたのは、「装いがみすぼらしいから、情けをかけたのよ」というささやきである。これまたあんまりな言われようだ……。
気持ちが沈みそうになったが、ミュリナはぐっと顔をあげた。
社交界でどんなにぼろっかすに言われようと、ミュリナはこの先ずっと社交界で戦っていく決心で、今日このデビューに臨んだ。
ミュリナの目的はただひとつ。
どんなに時間がかかろうと、エモンティエ家のやっていることを国家に知らしめ、認めさせる。エモンティエ家の方針がセレイア王国の人々を救うことを理解してもらい、多くの領地に広めてもらう。
きょうはそのための第一歩なのだ。
(……厳しい経験になりそう)
ミュリナはごくりと唾を飲み込んだ。
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