第32話 噂話

朝の昇降口をくぐった瞬間、違和感に気づいた。

まだ一時間目まで少し時間があるというのに、校舎の中庭に面した廊下ではちょっとした人だかりができていた。

その中心にいるのは、もちろん陽菜。それはいつもの光景だ。けれど、今日はどこか様子が違っていた。

声のトーン。空気のざわめき。

そして耳に飛び込んできた言葉の断片。

「デート」「誰と」「マジ?」「駅前で見たって」

(……まさか)

胸の奥がザワザワと騒ぎ始める。

俺はとりあえず落ち着こうと、廊下の自販機で買ったばかりのミルクティーを一口。

でも、耳は無意識のうちに陽菜の周囲の会話に集中していた。

「駅前のカフェで見た子がいるらしくてさ、陽菜が男の子とデートしてたって」

「しかも相手、背は低めだけど、超イケメンだったって!雑誌に出ててもおかしくないレベルとか」

「陽菜と並んでも違和感なかったんだって〜、むしろ似合いすぎて逆に目立ってたらしいよ」

(……ちょ、ちょっと待て)

鼓動が一気に早くなる。

それ、どう考えても俺のことじゃないか?

昨日、姉さんに頼まれて――いや、半ば強制的に変えられた“激レア冬馬”。

服装も髪型も完璧に仕上げられて、正直、自分でも鏡の中の姿を二度見したくらいだった。

(でもバレるはずがない。……あんな姿、自分ですら別人にしか見えなかったんだし)

俺はなるべく自然に席について、聞き耳だけ立てていた。

しかし、その淡い希望はあっさりと打ち砕かれる。

「駅前で僕に似た人がデートしてたって? う〜ん……多分、それ、合ってると思うよ。僕も昨日デートしてたし」

「ぶっ……!」

思わず、飲みかけていたミルクティーを吹き出しそうになる。

慌てて口元を押さえたが、目は思わず陽菜のほうに向いてしまっていた。

(いやいや、言っちゃうのかよ……!)

陽菜はまったく悪びれた様子もなく、相変わらずけろっとした顔で話している。

「誰かっていうのは、あんまり言えないけど……その人は、大切な人だから」

「え〜!」「きゃ〜誰〜!?」「ヒントちょうだい!」

女子たちの黄色い声が、さらに廊下に響き渡る。

そんな喧騒の中、不意に背後からささやくような声がした。

「……ねえ冬馬、昨日のイケメンって冬馬だったんでしょ?」

顔を向けると、そこには夏希。

目を細めて、少し意地悪そうに微笑んでいる。

「えっ、なにが?」

「陽菜ちゃんと、約束通りデートしたんでしょ? なんか噂だと“謎の美形男子”ってことになってるみたいだけど……私、な

んかピンときちゃってさ」

「……まあ、多分、俺だな。遠目から見て誰かわからなかったんだろ。陽菜は気づいてたけど、他の人には別人に見え

たってことさ。……ってか、あいつの言い方がややこしいんだよ」

「ふふ、びっくりしたよ。陽菜ちゃんが冬馬とのデートすっぽかして、別の男と行ったのかと思っちゃった」

「そんなこと、あいつがするわけないだろ」

「……うん、わかってるよ」

夏希はそう言いながらも、ふと真剣な表情になる。

「でもさ、もし……別の人が現れたら、冬馬は――」

「ん? なにか言った?」

「ううん、なんでもないよ」

言いかけた言葉を飲み込むように笑う夏希。

その瞳は、どこか寂しげだった。

(……昨日、陽菜に言われたことが頭をよぎる。文化祭までに告白しなかったら、返事を聞かせて、って)

陽菜のまっすぐな想い。それを受け止めるには、俺自身の気持ちも整理しなきゃいけない。

けれど、今目の前にいる夏希も、大切な存在で――

「ねえ冬馬、昨日……陽菜ちゃんに告白されたって、本当なの?」

唐突に問われて、心臓が跳ねた。

「えっ……なんで知ってる?」

「昨日、陽菜ちゃんに電話で聞いたの。……で、冬馬が保留にしたって」

俺は思わず、苦笑いでごまかすしかなかった。

「……まあ、色々あるんだよ。俺なんかが陽菜の横に立っていいのか、とかさ。あと、今のこの3人の関係が変わっちゃう

のも、正直ちょっと怖いっていうか……」

言葉を探して口にした途端、夏希の表情がふっとやわらいだ。

「……ふふ。ばかっ」

「えっ、なに?」

「冬馬はバカって言ったんだよ」

そう言い残して、夏希はくるりと背を向けて歩き出す。

その後ろ姿、どこか照れ隠しのようで、でもほんの少しだけ、肩が震えているようにも見えた。

(……やっぱり俺、ちゃんと答えを出さなきゃいけないな)

胸の奥で、何かが静かに動き出していた。

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