その翡翠き彷徨い【第48話 二つの轍】
七海ポルカ
第1話
エデン南西部にあるフィルネア地方。
深い森と山脈が通る険しい土地である。
一台の幌付きの馬車が行く。
空の光も届かない、葉の生い茂った深い森だ。
馬車には東の街から商売の為にやって来た、商人一家が乗っていた。
馬の手綱は父親が取り、その隣に妻が座っている。
荷台には様々な品々と、旅には必ず伴う幼い姉妹二人がいる。
「おい、コンパスを用意してくれ」
父親が言った。
「……ついてないな。ようやく山道を越えたと思ったらこんな霧が出て来た」
いっそう悪くなった視界に彼がぼやく。
「まぁまぁ。リングレーの治安の悪さに比べたらこっちの方がずっとマシよ」
妻が元気づけるように明るく言った。
荷台から娘達が顔を出す。
「今日、野宿でもいいよ!」
楽しそうに笑っている。
「コラ、何を言うか。こんな森で野宿なんて危ないんだぞ」
「大丈夫よ。猪なら私この前、弓で仕留めたもん」
「そういうことじゃなくてだな……」
「いや~! あたしは宿のふかふかのベッドで寝たい!」
妹が頬を膨らませている。
「街に着いたらまず、店を借りなきゃダメなのよ。
品物も全部下ろさなきゃ。大変なんだから」
「分かってるもん」
「私はこうやって家族で旅をしてる時が一番好き。ねっ、お父さん!」
「何を言っとるか」
口では言いつつも、娘達の可愛い笑顔に顔が綻んでいる。
そんな夫を見て妻が笑った。
「あなた、疲れたでしょう。この森は一本道だから手綱代わるわよ」
「なぁに大丈夫だ。ローディスまではあと少し……」
ガタンッと突然馬車が止まった。
「なんだ?」
馬に鞭を入れるが、ぴったりと二頭引きの馬は立ち止まっている。
「怪我でもしたかな? ちょっと見て来るよ」
御者台から下りて父親は馬の足を見たが、特にケガをしたような様子は無い。
「……おかしいなぁ」
「きっと疲れてるのよ。少し水をあげましょう」
「ああ……」
父親が立ち上がったとき、ふと周囲の異変に気付いた。
「――あなた?」
「しっ!」
父親は厳しい顔をして御者台に戻る。
妻も気付いた。周囲の景色が瞬く間に霧に包まれて行く。
それまで聞こえていた鳥の声、風や葉の音が全て消えていた。
濃くなる霧は、すぐ目の前の道すら覆い隠してしまった。
「あなた」
「仲間から聞いたことがある。
深い森で、こんな奇妙な霧に包まれて馬の足が止まる時……近くに
一家は旅の経験は長かった。
賊に遭遇したこともある。だがいつもは護衛や他のキャラバンと移動することが多いので、こうやって単独で山越えをすることは、あまり無いことだった。
「お父さん、どうしたの?」
不安を感じ取って、娘が中から声をかけて来たが、父は幌をバサリと下ろした。
「大丈夫だから、お前達、中で静かにしていなさい」
……冷気がどこからか流れ込んで来る。
「あなた……、」
妻の身体を守るように力強く抱き寄せて、父親は腰の短剣を掴んだ。
だが、モンスターの中でも死霊などの不死生物には、剣などは効かない。
実体がないから斬ることは出来ないのだ。
「死霊は人を襲わないものもいると聞いたことがある。
仲間のキャラバンが襲われた時は、先頭の馬車の馬がやられただけで済んだと聞いた。
いいか、俺が言うまで、じっとしていろ。
逃げろと言ったら、すぐに中に入って娘達を連れて裏から逃げるんだ」
妻は顔を強張らせながらも頷いた。
長年商人として各地を回った自分を支えて来た女だ。心配はいらないだろう。
夫に強くしがみつき、息を押し殺す。
実体のない死霊は完全に目に見えないものも、光のように見えるもの、影のように見えるもの、様々なものがいる。
父親の目に、深い霧を掻き分けて、確かにこっちへゆっくり近づいて来る、人ならざるものの姿が感じられた。
姿は見えない。
だが霧がその存在を掻き分けるから『来る道』がはっきりと見える。
シュウウウウウ…………、
何か張りつめた袋から空気が細く漏れるような、気味の悪い音が聞こえた。
すぐ間近へと近づいて来る。
目の前の馬の一頭の身体に異変が起きた。
その身体が瞬く間に腐敗し、肉が削げ、骨が露になって行く。
酷い死の臭い。
だが叫びたくなる声を我慢して、男は妻の身体を一層強く抱きしめた。
(行ってくれ。このまま何も無く……去ってくれ……!)
目を瞑り、彼は不気味な静寂を耐え忍ぶ。
そのとき、キャアアッと悲鳴がした。
ハッとする。
荷台から娘が顔を出し「お化け!」と叫んだ。
「危ない、お父さんお母さん、逃げて!」
娘には、はっきりとその姿が『視えて』いたのだ。
顔に氷のような冷気が吹き付ける。
逃げろ、そう言おうとしたが、不意に喉が人の手で締められているように苦しくなった。
「お父さん! いやああ! 助けて、誰か助けて――っ!」
娘が泣き叫んでいる。
「あなた!」
父親が苦しみに胸を掻きむしった。
死ぬのか、本当にそう思った瞬間。
――突然光が走った。
パアン! とガラスが割れるような音がして、父親の身体が自由になる。
彼はごほごほと激しく咽せた。
「あなたっ! あなた大丈夫⁉」
妻が背中を慌ててさする。
「だ……、大丈夫だ……っ」
「お父さん、まだたくさんいるわ!」
娘が抱きついて来る。
「どこにいる⁉」
やはり彼には見えなかった。しかし娘は的確にそちらを指差した。
「前から歩いて来る! 向こうにも、三体いるわ!」
「くっ……! 動け、動いてくれ!」
生きている馬に鞭を必死に入れるが、
馬は鬣を逆立たせたまま、震えて石像のように全く反応しない。
その時だった。
――【
馬車の後方から光の矢が駆けた。
さっきの光だった。
目の前の深い霧を切り裂く。
「な、なんだ⁉」
バチバチと上空を白い雷が駆け巡る。
泣いていた娘も、驚きのあまり泣き止んでいた。
「……きれい……」
光が弧を描いて飛んで行く。
霧が、苦しみから逃げ惑うように霧散して行く。
ガサ……、と葉を踏み分ける音がした。
耳が痛くなるほどの無音の中に、それはやけに大きく響く。
ふらりと馬車の後ろから、緑色の術衣に身を包んだ青年が現われたのだった。
「! 危ない、あ、あんた逃げろ!」
父親が声を上げたが、青年はゆっくりと前に手をかざすと、不意に何かを呟いた。
――【
小さな呼び声に呼応する。
突然、目の前で眩い光が爆ぜて火柱が上がった。
青年は間を置かず、腕を振るう。
走った風が刃となり、樹々を薙ぎ払った。
もう一度、ドドオオン……! と、大きな音を立てて地面が揺れた。
思わず目を瞑るほどの衝撃だった。
しかしすぐに辺りが静かになる。
恐る恐る、父親は目を開いた。
すると倒れた樹々の間から空からの木漏れ日が差し込んでいて、森が明るくなっていた。
鳥の声。
風が通る。
『それ』が見えない彼でも、分かった。
危険は去ったのである。
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