第2話
――――翡翠の瞳が開く。
暗がりに一つ、息をついた。
汚れた天井。
綺麗に飾られた娼館の裏手には、娼婦達が住む部屋が与えられていた。
三階建ての汚い建物に、女達はただ眠る為だけの小さな部屋を持っているのである。
『
そのほとんどがこの地方の出身ではなく、別の土地から売られて来た女達になる。
帰る場所も行く場所も無い女達が生業として身体を売り、何の変化も無い毎日を淡々と暮らしている。
その狭い部屋の一室、狭いベッドの上で眼を開くと、丁度窓から細い細い三日月が見えた。
何か象徴的に感じられるその夜空の傷痕を、ぼんやりと翡翠の瞳で見つめていると。
「起きたの?」
すぐ隣で女の声がした。
長い茶色の髪を結い上げながら女がこっちを見ていた。何も身に纏わない女の裸体が頼りなげな月の光の中でも浮かび上がって見える。
青年は眼を細めた。
目元に掛かった栗色の髪を指で掬い上げてから、しばらくまた天井を見上げた。
髪を結い終えた女は毛布を捲り、青年の隣にうつ伏せに寝そべる。そして顔を覗き込むように身を乗り出して来て、その栗色の髪に触れた。
「ねぇ」
女は少し面白そうに声を震わせた。
「夢見てた? 誰かの名前を呼んでたみたいだったけど」
女の細い指先を見つめて、青年は翡翠の瞳を瞬かせる。そういえば妙に寝覚めが良くない。夢を見ていた気はした。だが全く思い出せなかった。
戯れるように髪に触れている女の手をそっと押さえて青年は上半身を起こした。
「……起こしてしまったみたいだね。出て行くよ」
静かにそう言って、側の椅子に置いてあった自分の服に手を伸ばした。
くたびれたシャツに腕を通してズボンを穿いた。チェーンの長い古めかしいペンダントを頭から通して胸に掛ける。
手慣れた身支度だ。
使い古してある古いブーツに青年が手を伸ばそうとした時。
「いいじゃない、私は別に気にしてないわ。元々起きていたし。どうせもう数時間もすれば朝が来るわよ。それまでいれば?」
女は言って、ぽふとシーツを手の平で押さえた。
「……それに、夢で呼べるような相手がいるなんてちょっと素敵じゃない?」
青年は女の方を振り返った。
くすっと悪戯っぽく女は笑っている。
「どうせなら朝までいてよ。吟遊詩人さん?」
青年は少し考えたようだが、やがてブーツを手放してベッドに戻って来た。
しかし眠る気は失せたようで、ベッドに裸足の脚だけ入れてそこに座った。
女は満足げに、脚を伸ばした青年の膝に頭と腕を凭れかけさせて寝そべる。
彼は特にやることも無かったので、側に置いてあった小さな手琴をとって、弦の張りなどを確かめ始めた。
「なんだか意外。貴方がそんなに心に想う人を持ってるように見えなかったから」
青年はそれには答えずに、眼を軽く伏せたまま、小さく口許を緩めただけだった。
「夢の内容、覚えてる?」
首を静かに振った。
「あら残念。わたし、ちゃんと聞いておけば良かったね」
「必要無いから覚えてないんだよ」
青年はさらりとそう言った。
ふーん……と女は青年の顔を見上げている。
「そういえば聞いた事無かったけど、貴方って本当はどこの出身なの? その瞳の色……珍しいわよね」
「知らないんだ。孤児だったから」
「そうなの?」
「うん」
女は青い瞳を瞬かせる。
「マキュアと賭けてたのに。彼女は貴方は北部アルマナ地方辺りの出身じゃないかって言ってた。あそこは黒目黒髪の人間が多いけど、血が混じると、そういう青み掛かった色が出るんだって」
青年は女の話には答えず、ただ手琴を触りながら静かに笑んでるだけだ。
女は青年の胸に下がっていたペンダントを持ち上げる。
紫水晶の嵌まった古い装飾品。
銀細工の所に 鳥の顔と翼を持ち、下半身は馬の姿をした不思議な動物が彫られていた。
「これ、なぁに?」
「?」
「この変な動物」
「ああ……エデン西南の方にあるイネシアっていう小国の神話に出て来る神獣だよ。【ライディーン】といって、白き雷を司るんだ」
吟遊詩人である彼のどこか歌うように滑らかに喋るのを聞きながら、女は首を傾ける。
「白き雷……か。じゃあ黒き雷もあるのかしら?」
「あるよ。黒き雷を司るのは【バルシュトルム】。暗黒の四枚羽を持つ蝶。深い海の底に棲む精霊の一種なんだ」
軽い気持ちで聞いたのをまた滑らかに返されて、女は興味を持ったように瞳をあげる。
「蝶が、海の底にいるの?」
「うん」
「ふふ。面白い話。さすがに吟遊詩人て色んなこと知ってるのね。娼館で娼婦にそんな話聞かせる男、いないわよ?」
女は笑いながらそのペンダントをもう一度手に取った。
「ね、これちょうだい」
青年は手琴の弦を張り直しながら、特に考えることも無く答えた。
「いいよ」
「……じゃ、いらなーい」
女は仰向けになった。
「?」
「貴方が絶対に渡したくないってものが欲しいの。だからこれはいらない」
「難しいこと言うんだね」
青年は少し困ったように笑った。
「もうこの街を発つから。世話になった礼にあげられるものは、このくらいしかないなと思って言ったんだけどな」
女は青年をもう一度見上げた。
「他に金目のもの持ってないし。……と言ってもこれもそんなに値打ちのあるものじゃないんだけどね」
「……出て行くの?」
「うん。もう一月くらいいたから」
「皆、寂しがる。貴方の謳を聞くの、みんな好きだったのに」
「吟遊詩人があんまり顔を覚えられるのも誉められたものじゃないから」
青年はペンダントを握ったままの女の手をそっと外した。
「ここは居心地が良くて、つい長居をしてしまった」
「……貴方って変わってる。娼婦の側が落ち着くなんて、変よ」
「別にそういう意味じゃないよ。ここには昨日にこだわる人がいないから、楽なんだ」
「私達は昨日の男を、貴方は昨日の寝床を。何の思い入れも無く通り過ぎて行くのね」
「ありがとう。屋根とベッドがあって幸せだった」
青年がふわりと笑うと女は眼を瞬かせてから、吹き出した。
「いいのよ。私もこの一月、楽しかった。メイルーサにはまた来る?」
「そうだね、皆が俺の顔を忘れた頃に」
女は起き上がった。
はらりと毛布が落ち、女の裸体が露わになる。
女の手が青年の顔に伸びてそっと顔を近づけ、瞼の上の辺りに一つ小さな口付けを落とした。まるで祝福を与えるみたいに。
青年はただ眼を閉じ、穏やかな笑みを浮かべてそれを受けている。
……不思議な青年だった。
一月前、ふらりとこのメイルーサの街にやって来た吟遊詩人。
『
まるでその音色を聞いているみたいで女は娼婦仲間にその様子を教えて、三階の窓から笑ってみていた。
四日目、朝から酷い雨だった。
窓から外を見ると雨に濡れているのに、それすら忘れたようにぼんやりと手琴を弾く姿があった。
さすがに今日は猫もいない。
雨の日は宿泊も兼ねて遊ぼうという発想になるのか、実は娼館は繁盛する。
だから雨の日は忙しい稼ぎ時なのだ。
女は外に出て、客を引くつもりが何故かこの青年に傘を差し出していた。
――――ありがとう。
青年は一瞬、雨が途切れたのを不思議に思ったらしい。
きょとんとした顔をして後ろを振り返った。
そして女が傘を差し出している姿を見つけると、すぐにふわと笑って礼を言って来たのだった。
暗い路地で汚れたローブ姿。
通りの店先でしゃがみ込んでいたら、客が寄り付かないだろうがと店主か用心棒に蹴られていただろう。
思いがけないほど綺麗な翡翠の瞳をした青年だった。
上から見下ろした時は寂しげに見えたのに、浮かんだ笑顔は柔らかくて驚いた。
女としては、自分より汚れていて孤独な人間に手を差し出したつもりが、まさかそんな笑顔で礼を言われるとは思わなかったのだ。
このメイルーサには、特に女の生きる世界には、こんな笑顔を浮かべる男はまずいない。
「あなた、かわいい。一晩買わせて。」
そう言って、女は青年の濡れた袖を取ったのだった。
その日から一月余り青年はこの部屋で寝泊まりをしていた。
女が仕事でいないように、青年も数日間どこかへ行って戻って来ないこともあった。
それでもふと部屋に戻ると、下の酒場から青年の手琴が聞こえて来て、下に下りて行って側に座り、青年が奏でているのを聞いたりした。
あまり音楽の教養の無い女には、青年の演奏が上手いのか下手なのかは分からなかったが、それでも音色はいつも綺麗だと思っていた。
青年が弦から手を放すまでは好きにさせて、手を放すとその手を握って部屋に戻った。
青年は抵抗することも無く手を引かれて女について来る。
まるでごはんをたまにねだりに来る犬みたいだった。
女と青年はそんな関係だった。
何かをたくさん喋ったわけではない。
一緒にいただけだ。
ただ一度だけ、乱暴な客に手を上げられ顔を腫らして部屋に戻った時に、いつものようにぼんやりベッドに腰掛けて、月を見上げていた青年の身体にしがみついて、娼婦の顔を殴るような男、今度来たら殺してやる! と涙を零して泣き寝入ったことがあった。
青年は何も言わず女の殴られた傷痕、右の瞼と頬の辺りに手の平を当てて、一晩中そこに座ったままそうしてくれていた。
翌朝、青年の膝に凭れて眠っていた女に毛布がかけられ、青年が部屋を出て行く気配に眼が覚めた。
ゆっくり起き上がって、部屋の鏡に映った自分を見ると、数時間前の昨夜まで醜く腫れ上がり、ひどい鬱血をしていた右の顔が元に戻っていることに驚いた。
そこには何の傷も無かった。
窓の外を見下ろすと、まだ光も差し込まない朝霧の中、青年がまるで散歩でもしに行くような足取りで、ゆっくりとメイルーサの街へと歩いて行く姿が見えた。
そんな不思議なことが、一度だけあった。
いつもフードを頭から被っているので、それを下ろしてよく顔を見てみると、驚くほど若くて整った顔をしていた。
埃や汚れを無頓着に顔につけて帰って来るので、風呂に入れて磨いてやれば、見違えるような容姿になった。
髪は細くて柔らかい栗色で、肌は柔らかな白。
日々化粧で肌を白く見せようと四苦八苦している娼婦達が、憎たらしい、何か特別な手入れをしているようだと歯ぎしりをするような綺麗な肌をしていた。
これで綺麗な服を着せて飾れば、貴族の子爵だと人に言っても全く疑われないに違いなかった。
何よりその瞳。
吟遊詩人はもっと馬鹿な眼をしている、というのは青年を見せた時に、娼婦仲間の女が言った言葉だが、確かに不思議な瞳をしていた。
学のある人間がいれば多分、知性の宿る瞳とでも言うのだろうが女はただ単純に、その色が美しいと思っていた。
ただの緑でも、青でもない。
美しい緑に深い青。その二色が混ざり合ったような。
青い目の女はこの娼館に腐るほどいるが、間違いなくその中でも、これと同じ色の人間は一人もいまい。
この明らかに若い姿で普段はそれを汚れに、何故か曖昧にさせていて、どこか浮世離れしたような雰囲気を持っていた。
この青年の周囲には涼しく穏やかな空気が流れていて、それはこの娼館で寝泊まりするようになっても全く乱れることがなかった。
女は青年を気に入った。
少女の頃から貧民街で育ち、十二歳ですでに娼館の中にいた女は、人間というものを好きだと思った事が無い。
だがこの青年のことは好きだと思った。初めてのことだった。
男は女を肉欲のままに蹂躙するしか脳がないと思っていたけれど、こんな男も世の中にはいるのかとひどく新鮮に思ったのだ。
「……なにか謳って。何でもいいから」
女はベッドに寝そべって言った。
青年はしばらく考えてからゆっくりと手琴を弾き始める。
夜に添うように、ささやかに。
静かな旋律が流れる。
ああ、やっぱり音は澄んでいる。
綺麗で、心地いい音色。
弦を弾くその指は、やはりどこか育ちの良さのようなものを伺わせるように、綺麗な造りをしていた。
こんな指を持つ青年が、何故吟遊詩人などに身をやつしているのだろう?
青年は何となくぼんやりと心に思い浮かんだその曲を奏でていただけだった。
しかしやがて側で横向きになって眠っていた女の眼から、涙が零れたことに気づき、ふと指を止める。
「どうしたの?」
女は眼を擦って首を振った。
「貴方こそ、どうして分かったの。私が南部出身だって。
私の容姿って南部出身らしくないのに」
青年は眼を瞬かせる。
不思議な青年だった。
その不思議さが、何となくとても好きだった、と思う。
「それは私の故郷の謳よ」
女は驚いたようにそう呟いてから、もう一度零れた自分の涙を手の平で掬った。
青年の身体に腕を回して腹部に顔を埋めた。
「どうして貴方みたいな人が幸せになれないの。人生っておかしい。」
彼は女の髪を優しく撫でたまま特に気にもせず小さく笑ったようだ。
「俺は不幸だから吟遊詩人になったわけじゃないよ」
「だって貴方を初めて見た時、寂しそうに見えた」
「流浪の宿命なんだ」
「るろ……何?」
女は涙の堪った瞳で青年を見上げる。
「流浪の宿命。故郷の記憶を持たざる者。一カ所に留まると必ずよくない運命を引き寄せる。だから俺みたいなのは、世界を漂っていた方が自分にも他人にもいいことなんだ」
「……誰かを不幸にしたの?」
「どうかな。そうなる前だったと思いたい」
「……夢で見た人?」
「あれは本当に覚えてないんだ」
青年はそう言って笑った。
「……」
「幸不幸だけが人生を彩る二色じゃないさ。
幸せだと自分で感じることが少ない人がいれば、
些細なことを子供のように喜ぶ人だっている。
一人でいることが不幸だと思う人もいれば、そうでない人もね。
たまに不幸だけど、たまに幸せだ。そんなものだよ。
俺はいつも一人だけど、この一月は君といて楽しかった。
遠い地へ行った時にそれを思い出して笑うこともあるし、
心寂しく想うこともある。それが人生なんだ。
だから素直に笑って泣いて生きればいいんだよ」
一体何歳なんだろう、と女は思う。
不意に見せる笑みを見るとひどく幼く見えるのに。でもこうやってぼんやり見上げていると、もう十分に生きて、人生を達観した老人のような静けさを感じることすらあった。
そう、まず娼婦をこんなにも普通に人間だと思う人間自体が珍しい。
「貴方ってほんと、不思議ね。流浪の宿命なんて言う人初めて。留まらず一人彷徨い続ける人生なんて普通寂しいわ。でも、何故か貴方は不幸を生きている感じがしない。そんな根無し草みたいな人生でも楽しいの?」
「楽しいよ。自分の脚で色んな土地に行ける。そこで色んなものを見て、聞いて……人に会って、そして今みたいにね……時折、不意に奏でた曲で誰かが喜んでくれたりする。南方シャルローと、この北西メイルーサの街が僕の人生の中で繋がったんだ。これは面白いことだよ。歩いて培って来たものがこうやって突然繋がるのは、楽しい。」
「吟遊詩人は、天職?」
青年はもう一度微笑した。
「そうだったらいいね」
女は裸のまま、青年の足にしがみついて寄り添った。
「……朝まで謳ってて。シャルローの歌なの。恋人がエルバト王国軍に徴兵されて、そのまま戦で死んでしまう。その魂が故郷で待つ恋人の元に白い鳥の姿に変わって会いに行く歌よ」
「そういう歌だったんだ」
青年はようやく理解したように笑いながら頷いて、静かに曲を弾き始める。
女はそれを聞きながら言った。
「……彷徨い続ける宿命なら、寂しい時には私を思い出していいよ。
私といた時間を貴方が思い出して笑えたら、
こんな私でも人を幸せに出来るんだって信じれるから」
「今、信じていいよ」
琴を爪弾きながら、青年は優しい声でそう答えた。
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