偽り夫婦は神域で恋をする
すぎやま よういち
第1話 雷鳴の誓いと、美しき神の眷属
夕焼けが、今日の終わりの色を空いっぱいに広げていた。春野まどかは、親友の亜美と、いつものように学校帰りに近所の小さな神社へと向かっていた。神社の石段を一段ずつ上るたび、都会の喧騒が遠ざかり、代わりに木々のざわめきや鳥の声が耳に届く。ここは、まどかにとって、日々の小さな悩みを忘れさせてくれる、秘密の場所だった。
「ねえ、まどか、聞いてよ! 昨日、田中くんとLINE交換したんだ!」
亜美の弾んだ声が、静かな境内に響く。恋バナに花を咲かせながら、くすくす笑い合う。そんな何気ない日常が、まどかの全てだった。平凡だけど、温かくて、穏やか。まさか、その「平凡」が、この数分後、雷に打たれたかのように打ち砕かれるとは、想像すらしていなかった。
拝殿の前に立ち、二人はそれぞれ心の中で願い事を唱える。まどかの願いは、いつも決まっていた。「これからも、みんなが笑顔で過ごせますように」。そんな、ささやかな願いを込めていると、急に空の色が変わった。さっきまで広々と広がっていた茜色の空は、あっという間に黒い雲に覆われ、不気味な静けさが辺りを包み込む。肌にまとわりつくような湿気。まるで何かの前触れのように、空気は重く、張り詰めていた。
「なんか、急に暗くなったね……」
亜美の不安げな声が、ぴりぴりとした空気を切り裂く。その瞬間、轟音が天地を揺るがした。まどかのすぐ頭上で、稲光が奔ったのだ。視界が真っ白に染まるほどの眩い光。鼓膜を破るような雷鳴が耳をつんざく。まどかは咄嗟に目を瞑り、身を屈めた。その次の瞬間、全身を突き抜けるような、ビリビリとした激しい痺れと、耐え難いほどの痛みが襲った。焦げ付くような匂いが鼻腔を刺激する。
「まどか! 大丈夫!?」
亜美の叫び声が、遠く、まるで水の中にいるかのように聞こえる。けれど、まどかの意識は、その声に答えることもできずに、深い闇の中へと沈んでいった。最後に感じたのは、地表が揺れるような微かな振動と、自分の身体が宙に浮き上がったかのような、奇妙な浮遊感だった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。まどかが意識を取り戻したのは、白い天井と、消毒液の匂いが満ちる病院のベッドの上だった。身体に異常はないものの、なぜか全身が軽く、まるで重力から解放されたような、不思議な感覚が残っていた。記憶が曖昧で、何がどうなったのか、うまく思い出せない。
「……あみ?」
掠れた声で呟くと、隣のベッドで心配そうにこちらを見つめていた亜美が、安堵の表情を浮かべて飛び起きた。「まどか! よかった、気がついたのね! 救急車が来るまで、まどかがピクリとも動かなくて、本当に心配したんだから!」
亜美によると、まどかは雷に打たれて意識不明になったらしい。奇跡的に命に別状はなかったものの、念のため数日間入院していたのだという。テレビのニュースでも、あの日の雷雨は異常気象として報じられていた。まどかは、自分がただ単に運が悪かっただけなのだと、自分に言い聞かせた。
数日後、まどかは無事に退院し、いつもの日常に戻った。しかし、雷に打たれて以来、まどかの周りでは奇妙なことが起こり始めていた。街を歩いていると、電灯がまどかの前を通るたびにチカチカと点滅したり、スマホの調子が悪くなったりする。気のせいだと自分に言い聞かせるが、漠然とした不安がまどかの胸に渦巻いていた。
そんなある日の夕方、まどかの家に、見慣れない訪問者が現れた。玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると、そこに立っていたのは、まどかの目を奪うほど美しい少年だった。色素の薄い、まるで夜明けの空のような不思議な瞳。絹糸のように滑らかな黒髪は、彼が動くたびにふわりと揺れる。整いすぎた顔立ちには、人間離れした気品が漂っており、まどかは思わず息を呑んだ。
彼は、まどかの通う高校の制服を着ている。確か、今日から転入してきた、東雲ミコトと名乗る、とんでもない美少年だったはずだ。クラスの女子たちが彼の話題で持ちきりだったことを思い出す。まさか、その彼が、自分の家にいるなんて。
「春野まどかさん、ですね」
少年は、涼やかで深みのある声でそう言った。彼の声は、まるで清らかな湧き水のように、まどかの心に響いた。
「あ、はい……あの、どちら様ですか?」
戸惑いを隠せないまどかに、ミコトは微かに微笑んだ。その笑みは、遠い星のように儚く、それでいてどこか人を惹きつける、不思議な魅力があった。
「僕は、東雲ミコトと申します。あなたに、大切な話があって参りました」
ミコトは、流れるような、しかし淀みない動作で深々と頭を下げた。そして、まどかの理解をはるかに超える言葉を口にしたのだ。
「あなたは、“封印の花嫁”に選ばれました。つきましては、不本意だとは思いますが、僕と“契約結婚”していただくことになります」
まどかの頭の中は、一瞬にして真っ白になった。「契約結婚」? まったく意味がわからない。冗談だとしても、悪趣味すぎる。まどかは自分が酷いドッキリにでも巻き込まれているのではないかと疑った。しかし、ミコトの真剣な眼差しは、それが単なる戯言ではないことを物語っていた。彼の瞳の奥には、確固たる決意と、どこか深い孤独が宿っているようにも見えた。
「え、あの…どういうことですか? 契約結婚って、私、高校生なんですけど…」
混乱するまどかに、ミコトは表情一つ変えずに言葉を続けた。彼の声は、まるで定められた運命を語るように、静かで、しかし有無を言わせぬ響きを帯びていた。
「先日、あなたが神社で雷に打たれたのは、単なる事故ではありません。それは、あなたが“封印の花嫁”として覚醒した証です。あなたは、特別な霊力を持つ者として、選ばれてしまったのです」
「れいりょく…?」
聞いたことのない言葉に、まどかはさらに困惑する。自分は、ごくごく普通の女子高生のはずだ。特別な力なんて、持っているわけがない。
「そして僕は、その力を導き、共にこの世界に災いをもたらす“神獣”を封印する使命を負っています。神獣の封印には、人間と神の眷属が“夫婦の契り”を結び、互いの魂を繋ぐことが必要不可欠なのです。それが、神と人の世界の均衡を保つための“儀式”であり、我々が交わす“契約”です」
ミコトの言葉は、あまりにも現実離れしていた。神獣? 封印? 神の眷属? まるでファンタジー小説の中の話のようだった。まどかは、目の前の美少年が、まるで本物の神様の使いかのように見えてきた。
「そんな、急に言われても、信じられるわけないじゃないですか! 私、普通の女子高生なんです! そんな大それた力とか、使命とか、あるわけないです!」
まどかの必死の訴えに、ミコトは静かに首を傾げた。その仕草はどこか幼く、まどかの心を掴んで離さない。
「無理もありません。ですが、これはあなたの意志とは無関係に決定された、神の御意思なのです。拒否することはできません」
彼の言葉には、一切の迷いがなかった。それは、まるで彼自身も、この運命を受け入れるしかなかったかのように響いた。有無を言わせぬミコトの言葉に、まどかはただ立ち尽くすしかなかった。
ミコトは、さらに契約の内容について説明を始めた。二人は夫婦として共に暮らし、学校にもこれまで通り通う。そして、各地に現れる神獣を二人で協力して封印する。しかし、その契約には、最も重要な、絶対的な条件が二つあるという。
「一つ。僕たちは、お互いに恋をしてはならない」
ミコトの言葉に、まどかは思わず息を呑んだ。恋をしてはならない? そんな馬鹿な。結婚なのに? その理由を問おうとしたまどかの言葉を遮るように、ミコトはもう一つの、さらに衝撃的な条件を告げた。
「そして二つ。もし、契約期間中に僕たちが本気で愛し合った場合、あなたの魂は神界に引き込まれ、二度とこの世界に戻ることはありません」
重すぎる契約条件に、まどかは言葉を失った。本気で愛したら、魂が消滅する? そんな恐ろしい話があるだろうか。平凡な女子高生だった自分が、いきなり神の花嫁に選ばれ、見知らぬ美少年と契約結婚をする。しかも、恋をすれば魂が消滅するという危険な条件付きで。
「そんなの、おかしいですよ! なんで私がそんな目に遭わなきゃいけないんですか!?」
まどかの必死の抗議にも、ミコトは表情を崩さなかった。
「これは、世界を守るための、古くからの定めです。我々神の眷属は、この使命を代々受け継いできました。あなたも、その運命を受け入れるしかありません」
彼の声は、どこか遠い世界の話をしているかのようだった。しかし、その瞳の奥には、彼自身もこの運命に縛られていることへの、深い諦めのようなものが宿っているようにも見えた。まどかは、その彼の瞳の奥に、自分と同じ「意味が分からない」という困惑と、それでも抗えない運命を受け入れるしかないという、悲しい決意を見出したような気がした。
その日の夕方、まどかは半ば強引にミコトと共に彼の家へと向かっていた。まどかの荷物は、すでにミコトの家の前に運ばれていた。ミコトの家は、駅から少し離れた閑静な住宅街にひっそりと佇む、古民家風の一軒家だ。月明かりに照らされたその家は、どこか神聖な雰囲気を漂わせている。
「今から、ここがあなたの家になります」
ミコトは、淡々とした口調でまどかに告げた。広い玄関を上がり、広々とした畳の部屋に通される。そこに置かれたまどかの私物が、奇妙なほどに場違いに見えた。
夕食の席で、ミコトはまどかに向かって言った。彼の声は、まるで冷たい鉄の鎖のように、まどかの心を縛り付けた。
「僕は君を守ります。それが、契約だから」
その言葉は、あくまで「契約」という枠組みの中での責任を意味しているのだろう。彼に、まどか個人への感情は一切ない。そう頭では理解しているのに、まどかの心は、その一言に、言いようのない孤独と、微かな期待を抱いて揺れていた。
雷鳴の夜に始まった、まどかの予想もしなかった運命。それは、神と人との世界の狭間で繰り広げられる、危険で甘美な物語の序章に過ぎなかった。契約で結ばれた二人の未来に待ち受けるのは、神獣との戦いなのか、それとも――禁断の恋の炎なのか。まどかの心は、まだ見ぬ運命の荒波に、小さく揺れていた。目の前のミコトもまた、自分と同じように、この突然の「契約結婚」の意味も分からないまま、ただ定められた運命を受け入れているだけなのかもしれない。そんな予感が、まどかの胸に、奇妙な共感を呼び起こしていた。
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