第2話 ひとつ屋根の下、秘密の同棲生活

東雲ミコトとの「契約結婚」が始まって、一週間が経った。

まどかの新しい“家”は、想像していたよりもはるかに広かった。彼の家は、駅から少し離れた閑静な住宅街にひっそりと佇む、古民家風の一軒家だ。和風建築でありながら、随所にモダンな意匠が凝らされており、縁側からは手入れの行き届いた日本庭園が見える。まどかに与えられたのは、二階の陽当たりのいい部屋。大きな窓からは、庭の木々が風に揺れるのが見え、鳥の声が聞こえてくる。

「当面の間、ここをあなたの部屋とします」


引っ越しの日に、ミコトはそう言って、淡々と部屋を案内した。彼の表情はいつも冷静で、まるで感情の起伏がないかのようだ。その言葉の一つ一つが、まどかとの関係はあくまで“契約”であり、それ以上でも以下でもないのだと突きつけてくるようで、まどかの胸には小さな痛みが走った。まどかは、この信じられない状況に、まだ現実感が伴わずにいた。数日前まで、ごく普通の高校生として、家族と平凡な日常を送っていたはずなのに。目の前にいるのは、学校の転校生として現れたばかりの、人間離れした美しさを持つ少年、東雲ミコト。彼と、この広すぎる家で、二人きりで生活する。それも「契約結婚」という名目で。まどかの頭の中は、パニック寸前だった。

朝、目覚まし時計が鳴る前に、ミコトの部屋からは規則正しいシャワーの音が聞こえてくる。まるで秒単位で計算されたかのような生活音に、まどかは布団の中で縮こまる。カーテンを開けると、朝日に照らされた庭の緑が目に鮮やかだ。でも、その美しい景色も、まどかの心のざわつきを鎮めてはくれない。

リビングに降りると、すでにミコトが朝食の準備に取り掛かっていた。いつも完璧に整えられたシャツの袖をまくり、手際よくフライパンを振る彼の横顔は、まるで一流ホテルのシェフのようだ。食卓には、彩り豊かで栄養バランスの取れた朝食が並ぶ。サラダ、スクランブルエッグ、焼きたてのトースト。そして、湯気の立つ温かいスープ。その全てを彼が作っているのだ。


「いただきます」

向かい合って座る食卓で、二人の間に交わされる会話は少ない。ミコトは黙々と食事を進め、まどかは彼の横顔を盗み見ながら、胸の奥でひっそりとため息をつく。完璧すぎる彼との生活は、まるで自分の至らなさを突きつけられているようで、時に居心地の悪さを感じることもあった。「どうしよう、私、何もできない…」まどかの心は、常にそんな焦燥感に苛まれていた。

学校では、ミコトはあっという間にクラスの人気者になっていた。その完璧なルックスと知性で、男女問わず、彼の周りにはいつも人だかりができていた。休み時間には女子生徒たちが彼に群がり、放課後には運動部の男子たちが彼を誘う。そんなミコトの姿を遠くから見つめながら、まどかは時折、彼の横に立つ自分が、まるで彼の保護者のように見られているのではないかと、被害妄想に襲われることもあった。

「春野さんって、東雲くんと仲良いよね?」


ある日の放課後、クラスメイトからそう聞かれた時、まどかは曖昧に笑うしかなかった。まさか「はい、契約結婚してます!」なんて言えるはずもない。頭の中では「やばい、どうしよう、何て答えればいいの!?」とパニックになりながら、口から出たのは「あはは…どうかな?」という、しどろもどろな返事だった。ミコトは、そんなまどかの様子をちらりと見て、何も言わずにただ微笑むだけだ。その微笑みが、まどかの胸を締め付ける。彼にとっては、これはあくまで「契約」なのだと。

家での生活は、より一層、まどかを困惑させた。ミコトは完璧主義で、生活能力も驚くほど高かった。家事全般はもちろん、洗濯も掃除も完璧にこなす。まどかが手伝おうとすると、「僕がやりますから」と、あっさり断られてしまう。彼の気遣いなのは分かっている。けれど、何もさせてもらえないことが、まどかの心をさらに不安にさせた。「私、本当にここにいていいのかな…? 役に立ってるのかな…?」

ある日、まどかが食器を洗っていると、手が滑って皿を落としてしまいそうになった。その瞬間、背後から伸びてきたミコトの指が、皿の縁に触れ、かろうじて落下を防いだ。

「危ない」

ミコトの声が、すぐ後ろから聞こえる。彼の顔が、まどかの耳元に触れるほど近くにあった。シャンプーの、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。その近さに、まどかの心臓はドクンと大きく跳ねた。顔が熱くなるのを感じる。

「ご、ごめんなさい…!」


慌てて謝ると、ミコトは特に咎める様子もなく、淡々と皿を手に取った。「気をつけてください。割れては困りますから」

彼の言葉は、あくまで冷静だ。けれど、その彼の表情の奥に、ほんの一瞬、心配の色が宿っていたような気がして、まどかの胸はきゅん、と締め付けられた。

そして、最もまどかを苦しめたのは、契約の条件である「お互いに恋をしてはならない」という項目だった。ミコトは顔もスタイルも抜群で、頭もいい。もちろん、まどかにとって彼は“タイプ”だ。けれど、それだけじゃない。彼の冷静さの奥に隠された真剣な眼差しや、不意に見せる不器用な優しさに、まどかの心は抗いがたく惹かれ始めていた。

夜、自分の部屋でベッドに横になり、まどかは天井を見つめる。静かな夜。隣の部屋から、ミコトが読書をしているらしき気配が伝わってくる。彼の部屋はいつも静かで、まるで彼自身の心を表しているかのようだ。


「恋はしてはいけない。本気で好きになったら、神界に引き込まれる…」

その言葉が、まどかの脳裏で何度も繰り返される。自分は、彼に恋をしてしまっているのではないか? 彼のことを考えるだけで胸が苦しくなる。彼の声を聞くだけで、心がざわつく。彼の笑顔を見るだけで、温かい気持ちになる。これって、まさか…。

「いやだ、いやだ、いやだ!」

布団を頭まで被り、まどかは小さく呟いた。もし、この感情が「恋」だとしたら、自分はどうなってしまうのだろう。魂が神界に引き込まれるなんて、そんなこと、信じたくない。けれど、あの日の雷と、ミコトの言葉は、あまりにも現実味を帯びていた。

ある日の夕食後、リビングでテレビを見ていると、ミコトがまどかの隣に座った。二人の間に、わずかな距離が保たれている。その距離が、まどかの心を落ち着かせると同時に、もどかしさも感じさせた。

「明日の神獣封印について、少し打ち合わせをしましょう」


ミコトはそう言って、資料を広げた。神獣の絵が描かれた資料は、まどかの非日常を改めて突きつける。彼とこうして並んで座り、秘密の任務について話し合う。まるで、映画の主人公にでもなったかのような気分だ。けれど、それは同時に、自分たちが「普通の高校生」ではないことの証でもあった。

資料を読み進めるミコトの横顔を、まどかは盗み見る。真剣な眼差し。少し開いた唇からは、規則正しい呼吸が聞こえる。その完璧な横顔に、まどかの心臓はまた、ドクンと音を立てた。

「これは…?」

資料の一枚に目をやると、そこには神獣を封印する際の「儀式」について書かれていた。難解な専門用語が並ぶ中、まどかの目が釘付けになったのは、その中に書かれていた一文だった。


『契約の力は、“魂の結びつき”によって増幅される。そして、その結びつきが最も強くなるのは、“契約の口付け”においてである。』


まどかの顔は、一気に熱くなった。“契約の口付け”。つまり、キス。まさか、そんなことが必要になるなんて。ミコトが、それを口にするたびに、自分の顔が赤くなるのを見たら、彼はどう思うだろう? きっと呆れるに違いない。まどかは、慌てて資料を閉じ、頬を手のひらで覆った。


「どうかしましたか?」

ミコトが、まどかの様子を訝しげに見つめる。その視線に、まどかはさらにパニックになった。

「い、いえ! 何でもありません!」

蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。ミコトは、不思議そうな顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。彼の視線が、まどかの心に深く突き刺さる。彼はきっと、まどかの醜い感情など、想像もしていないだろう。自分だけが、こんな風に彼のことで胸をざわつかせているのだと。


夜遅く、自分の部屋に戻ったまどかは、ベッドの上で何度も寝返りを打った。

「恋をしてはいけない」「本気で好きになったら、神界に引き込まれる」

この契約の条件が、まどかの心を締め付ける。ミコトのそばにいると、心が温かくなる。彼の優しさに触れるたび、もっと彼のことを知りたいと思う。それは、まどかがこれまで感じたことのない、甘く、そして恐ろしい感情だった。

もし、このまま彼のことを好きになってしまったら? 自分は、どうなってしまうのだろう。神界に引き込まれる? それは、死を意味するのだろうか。得体のしれない恐怖が、まどかの心を蝕んでいく。


それでも、まどかは、この契約生活から逃げ出すことはできなかった。なぜなら、ミコトの瞳の奥に、時折見える深い孤独が、まどかの心を捉えて離さないからだ。彼もまた、自分と同じように、この重い運命を背負っている。彼を守りたい、彼の力になりたい。そんな気持ちが、まどかの心の奥底から湧き上がってくる。

偽りの夫婦として始まった同棲生活。学校では普通の高校生として振る舞い、家では神の代理人の“契約花嫁”として秘密の使命を負う。その全てが、まどかの心をパニック寸前の状態に追い詰めていた。しかし、このぎこちない共同生活の中で、まどかの心は確実に、契約では縛れない感情を育み始めていた。それは、まだ小さな芽だったけれど、いつか大きな花を咲かせ、二人を揺るがすかもしれない。そして、その花が咲いた時、二人は一体どんな運命に直面するのだろうか。まどかの心は、不安と期待が入り混じったまま、夜空の月を見上げていた。

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