第17話:自転車神ペダロと、行き先のない散歩
朝の光は、旅の匂いがする。
俺の家には、一台のママチャリがある。
シンプルな銀色、少しサビの浮いたカゴ。
パンクもしていない、ライトもまだ点く。
ただ――もうずいぶん乗っていなかった。
「……久々に、乗ってみるか。」
休日の朝。
特に行く宛てもなかったが、気まぐれに家の玄関から引き出す。
すると、軋むハンドルの奥から低い声がした。
「……やっと思い出したか、人の子よ。」
「……おまえ、もしかしなくても……」
「我が名は“ペダロ=スピナ”。
移動と風と、ほんの少しの自由を司る、自転車神である。」
「おい家電じゃないのにしゃべるのかよ!」
「家に連れ込まれ、雨をしのがれ、
人の暮らしに寄り添う時点で、私はもう家族だ。
神格化もまた自然なことだろう?」
「……言われてみれば……?」
ハンドルを握ってみる。
少し重い。ブレーキが鳴る音も、ギギギと苦しそうだ。
「年月を経れば、痛むところも増える。
それでも私の心は、まだ走りたがっている。」
「ちょっとそこまで試しに乗るか?」
「どこへ行こう? 商店街か、公園か?
それとも――ただ流れる景色を見にいこうか。」
ペダルを踏む。
最初はぎこちなかったが、次第にタイヤがリズムを取り戻していく。
――カラカラ、カラカラ。
チェーンが古びた音を立てながらも、俺を運ぶ。
「覚えているか? 昔、よくお前は私にまたがって
コンビニまで夜のお菓子を買いに行った。
冷たい風に耳を真っ赤にして。」
「あー……あったな。
中学の頃、友達んちでゲームした帰りとか……」
「その帰り道、何度もブレーキを強くかけては、
タイヤを滑らせて遊んでいた。
あれは正直、タイヤにとっては恐怖だったぞ。」
「悪かったって。楽しかったんだよ……」
住宅街を抜け、人気のない河川敷へ出る。
冬枯れの草の匂いが少し寂しい。
「お前が漕ぐとき、私は風になる。
お前の髪を揺らし、鼻を冷たくし、
息を白くさせる。
――そういう些細なことが、私にとっての誇りだ。」
「……なんだよ、詩的じゃん。」
「私はただ走るだけだ。
でも、そのただの“走る”が、
お前の世界を少しだけ広くする。
それだけでいい。」
小一時間ほど、行き先も決めずに走った。
どこへも急いでいない。
ただ、自転車を漕ぐということだけをしに、外へ出た。
「なあ、ペダロ。」
「なんだ。」
「……別にどこまで行くわけでもないのに、
なんでこうしてると気持ちいいんだろうな。」
「それは、お前が“生きている”からだよ。」
「……は?」
「生き物は止まると死ぬ。
心が動かなくなるより先に、足を動かしてみろ。
そうすれば風が教えてくれる。
『お前はまだここにいる』って。」
帰り道、やけに息が白かった。
寒さが身体に沁みて、指がかじかむ。
でも心臓はどこか軽かった。
「……少しは、気が晴れたか?」
「……ああ。」
「それでいい。
私はまた家の軒先に戻る。
お前に呼ばれるその日まで、ずっと待っている。」
「今度はチェーンに油さすから。」
「それだけで十分だ。」
家に帰ると、他の家電神たちが一斉に声をかけてくる。
バルミューダ神:「お前、顔が少し晴れているな。」
ツヤヒメ女神:「冷たい外気を吸ってきたのね。
ごはんもきっと、さっきより美味しいわ。」
コタツ神ユカタ:「さあ、私に入るがいい。冷えた身体を蕩けさせてやる。」
「……またお前か。」
レンジの勇者レン=ジ・ザ・サード:「運動したなら唐揚げを温め直そう。」
加湿器リリシア:「今日は特別に湿度を50%に調節するわ。」
掃除機ゼン:「埃を吸っておこう。足元を清めるのは大切だ。」
冷蔵庫フリーオ:「運動後の水分補給は私に任せよ。スポーツドリンクは庫内右下だ。」
「……うるせえな、お前ら。」
でも――
なんだか、やっぱりこいつらがいるこの家が好きだ。
夜、布団の中で考える。
今日、自転車に乗ってただぐるぐると走り回っただけ。
それだけで、少し心が軽くなった。
明日になればまた面倒な仕事があって、
ちょっと嫌な連絡も来るかもしれない。
でも――
あいつにまたがって、少し走ればいい。
それだけで多分、
“生きてる”って実感できるから。
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