第51話 大海原の暇つぶし
船の外輪が絶え間なく水をかき回し、一定のリズムでごうんごうんと低く唸っている。
私は甲板の縁に腰を下ろし、手にした簡素な竹竿を海へと垂らしていた。
穏やかな波が陽光を反射してきらきらと煌めいており、視線の先には水平線しか見えない。
釣れるかどうかなんて正直どうでも……よくはないが、ただただこの船旅が退屈すぎたのだ。
紅月に話しかけてもなんかそっけないし、そのくせやたらと気にしてくるし。
海を眺めるのだって、一日経てば飽きてしまう。
そんな私に唯一残された娯楽といえば、もう食ぐらいだろう。
五日間ほどの船旅なので、船内にはもちろん料理人が常駐してくれている。
その人曰く、釣った魚はその場でおろして、そのまま食べられるようにしてくれるらしいのだが、その肝心な釣竿が一日レンタルするのに、なんと銀貨10枚も必要なのだ。
10枚だ。かけそば換算で約50杯分に相当する。
料理人じゃなくて商人に転職したほうがいいと思うな、私は。
とはいえ、新鮮な魚を釣って生で食べられるのはプライスレスだ。
綾羅で食べたお寿司は本当に美味しかったからね。
新鮮な魚のお刺身なんて、食べたら……食べたら……まさか、あの料理人、醤油代とか請求してこないよね。
「……釣れますかな?」
不意に声をかけられ、振り向くと、丸い腹を帯で締めた年配の男が立っていた。
腰に布袋を下げ、どこか商人らしい雰囲気が漂っている。
「釣れませんねぇ。せっかく大枚叩いて借りたんですけど……」
「はは、そうですか。海釣りは気長に待つものですからな。……隣、失礼しても?」
「ああ、どうぞどうぞ、なかなか釣れない席ですが」
男性は私の隣に腰を下ろし、同じように竿を垂らした。
どうやらこの人も新鮮な魚に目が眩んだ、哀れな食いしん坊のようだ。
「……うん?」
潮風に混じって、干した果物のような甘い匂いがふわりと鼻をかすめる。
どうやら男性のほうから漂ってきているみたいだ。香水の類ではない。
「……おとうさんは、丹梅国へはなにをしに行くんですか?」
においの正体が気になった私は、その男性とすこし話してみることにした。
「行商ですよ。あそこは食にうるさい国でしてな」
「みたいですね。……あ、もしかして、それで果物を?」
「ええ、よくわかりましたね。そうです。私はたまにこうして、白雉国産の果物や野菜を、向こうに卸しているんですよ」
「じゃあ行商人さんなんですね」
「はい。白雉国産のものはどれも質がいいと、あちらの方は高値で買ってくれるのです。たまにご相伴にあずからせていただくのですが、これが本当に美味しい。私自身、白雉国の食べ物が一番だと思っているのですが、たまに食べる丹梅国の食べ物もまた無類ですね」
「無類ですか」
まずいな。無性にお腹がすいてきた。
ここは是が非でも釣らなければ――
「……ん?」
手応えだ。
竹竿が大きくしなり、その先端が海中を指し示す。
「おお……! これはなかなか大きいですな!」
隣にいた行商人さんが、私以上に興奮した表情を浮かべている。
私もその熱気にあてられたのか、わくわくしながら釣り糸の先と自身の手元を交互に見たが――
「えっと……どうすれば……?」
そういえば今まで私は、釣りをしたことがなかったことに気が付いた。
私の知識だと、釣竿というのは手元にグルグルと巻くものがあったと思うんだけど、この竿にはそれらしきものはついていない。
これはひょっとすると……騙されたのではなかろうか。
ただの棒きれを釣竿という体で販売していただけなのでは。
そんなことを考えていると――
「素早い手首の返しを意識するのです!」
男性は目の前でクイ、クイ、と手首を器用に手前側へ曲げる仕草をしながら、熱心に語り始めた。
「お、おとうさん……!」
「全身を使うのです。足の先から、頭のてっぺんまで、自身の体と竿とを一本の竿に見立て、勢いよく引き上げるのです!」
「な、なるほど……!」
どうやら男性は、釣りに関してはなにか、一家言持っていそうだった。
私は彼の言うとおり、手の中の竿に意識を集中させると、自身を竿だと思い込むことにした。
「……私は竿私は竿私は竿私は竿私は竿私は竿私は竿私は竿は私……ほあああ!」
瞬間、びょいーんと背中をのけぞらせて爪先立ちになるが、思いの外、魚の力が強く、持っていかれそうになる。
「ぶふぉっ!? い、いいですよ……! いいと思います、その心意気は……!」
隣にいた男性が、私の無様な姿に噴き出す。
なんか軽くいじられてるみたいで、すごく恥ずかしい。
もうやめよっかな。
そんな考えが一瞬頭をよぎるが、ここで私はもう一度彼の言葉を思い出す。
〝手首のスナップを効かせる〟〝全身を竿に見立てる〟
これらはすべて、自身の力を効率よく竿に伝達する手段だと気づく。
なるほど。それなら話は簡単だ。
私は即座に竿をふとももの間に挟むと、急いで〝ステータスオープン〟を発動させ、自身の力を最大値まで上げた。
勝負は一瞬。これで――
「そりゃっ!」
再び竿を手に持ち替え、力いっぱい引き上げる。
ざばぁっと海面に水柱が立ち、海の中からなにかが引きずり出され、宙を舞う。
やがて日食のように、それは一時的に私たちの頭上にある太陽を覆い隠すと――
「ぎぃやああああああああああああ!?」
そのまま男性の体をスポッと丸呑みにした。
大物だ。それは間違いない。
だが、どうしたものか。男性が食べられてしまった。
魚は男性を咥えたまま、ビッチビッチとまな板の上のように、甲板の上を跳ねる。
幸い、まだ魚の口先から足がニョキッと生えてはいるものの、いつ消化されてもおかしくない。
「な、何事……!?」
騒ぎを聞きつけたのか、紅月が私のもとに駆け寄ってくる。
「じつは……」
私は男性を横目に、今回のことを紅月に伝えようとするが――
「いや、呑気に状況説明してる場合ですか!?」
魚の口の中から活きのいいツッコミが飛んでくる。
よかった。男性はまだ消化されてはいないようだ。
「な、なんとなく、事情はわかったわ……」
紅月は
「た、助かりました……ありがとうございます……」
全身が、魚の体液やら脂やら血やらでまみれている男性が、紅月に礼を言う。
紅月はそれに軽く首を横に振って応えるが……気の毒だ。色々な意味で。
「あの、すみません、なんか巻き込んじゃって……」
「いえいえ、お気になさらず。お嬢さんのせいではありませんよ。それに、いつも食べていた魚に食べられる。……良い体験をしました」
「良い体験なんだ……」
男性は意外にもポジティブだった。
「それにしても立派なオニマグロですね」
「オニマグロ……?」
「ご存じないですか。近海の主とも呼ばれている回遊魚ですよ。この時期は旬ではありませんが、それでもその身は、とりわけトロは格別です」
「格別ですか」
やばい。無性にお腹がすいてくる。
たしかに紅月が捌いたオニマグロの腹部分は、脂が滲んだピンクの身がてらてらと陽光を照り返しており、とても美味しそうに見える。
「どうでしょう、このオニマグロ半身、言い値で譲ってはいただけないでしょうか」
「ああ、それはもう全然。私と紅月だけじゃ食べきれないでしょうし」
「おお……! ありがとうございます……!」
なんてやり取りをしていると――
『船務より通達。船務より通達。冒険者の方々は至急、会議室に参集願います。繰り返します……』
船内でなにかアナウンスのようなものがかけられた。
そういえばスピーカーのようなものを見かけなかったが、これも魔法の一種なのだろうか。
でも……このマグロどうしようか。
この人も、このままここに放置ってわけにはいかないよね。
「おや、もしかして、冒険者の方でしたか?」
「え、あ、はい。いちおう……」
「なるほど、そうでしたか。でしたら、ご心配なさらないでください。オニマグロは私が厨房へと運んでおきましょう。代金はまた戻られたときに、お支払いさせていただきます」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「ええ。こちらこそ、こんな立派なオニマグロをありがとうございます」
私は気の毒な男性に頭を下げると、そのまま紅月と一緒に会議室へと向かった。
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