第52話 密約
大晦日の緊急手術以降、紫生くんの容体は一進一退を繰り返し、昨夜から集中治療室で治療が施されている。
紫生くんのいない特別個室はあまりにも広く、朱里は無力感に襲われていた。
特別個室であれば、他の患者の目が届かないということもあり、神坂医師の計らいで面会が許されていたが、さすがに集中治療室への出入りは許可が下りなかった。
朱里はサイドテーブルの引き出しを開ける。
そこには一カ月前に入れた婚姻届がそのまま入っていた。
「ここに、彼のサインがあったら……彼の傍にいられたのかな……?」
いつ危篤状態に陥ってもおかしくないと言われて一カ月以上が経っている。
『バッドキアリ症候群』の急性型の予後は悪く、長くても数カ月しかもたないと言われているほど。
朱里の心臓は痛いほどに締め付けられ、瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
三日後に誕生日を迎える予定だが、彼が特別個室に戻って来れるかは分からない。
それどころか、今日にも息を引き取るんじゃないかと心配で堪らない。
『紫生くん、無事でいて……』
***
三日後。
無事に回復した紫生は、特別個室へと戻って来た。
「紫生くんっ!!」
「ただいま。……それと、お誕生日おめでとう」
「っっ……」
そう、今日は朱里の誕生日。
昼休みに紫生からメールを受信し、学校が終わった足で病院へとやって来たのだ。
数日の間に随分と黒ずんだような顔色になったことに驚きつつも、会話が出来るまで回復してくれたことに、朱里は心の底から安堵した。
「紫生くんっ」
「……ん?」
「これに、サインして!!」
「……」
「区役所に出さないって、約束するから!」
「……本当?」
「うんっ」
朱里はこの三日間、ずっと心配で堪らなかったことや、『彼女』では集中治療室に出入り出来ないことを正直に伝えた。
「紫生くんがここに名前書いてくれたら、神坂先生が特別に一日に一回だけ、集中治療室でも面会を許可するって言ってくれたのっ」
万が一、危篤状態に陥ったとして集中治療室で処置を施すことになった場合に、『婚約者』という立場なら、『主治医として許可する』と言って下さったのだ。
それを彼に伝えると、数分考えたのち、根負けしたのか、溜息交じりに『分かった』と口にした。
区役所に提出するわけではないから、捺印は必要ない。
神坂医師と朱里の二人だけの、秘密の取引。
意識のないような状態の姿を最愛の人に晒したくない気持ちと、自分が母親の最後を看取った時の気持ちを天秤にかけ、残される側の人の気持ちに寄り添うのがベストだと紫生は考えたのだ。
羞恥心やくだらないプライドで、彼女の気持ちを蔑ろにはできない、そう判断した。
紫生は思っている以上に手に力が入らず、ミミズがのたうちまくって気絶しているような字になってしまったが、本当に嬉しそうな彼女の顔を見たら、もう何も言えなくなってしまった。
「ありがとっっっ」
嬉し涙なのか、安堵の涙なのか。
離れていた間の不安を思い出して涙が溢れているのかは分からない。
大事そうに婚姻届を抱きしめる朱里の涙を紫生はそっと拭ってあげた。
『あと何回、彼女を泣かせてしまうのだろうか』
胸の奥から込み上げてくる悔しさを彼女に悟られないように、紫生は朱里をぎゅっと抱きしめた。
**
「朱里……?」
「……大丈夫。採血するだけだもん」
朱里は紫生に婚姻届にサインを貰う約束を神坂医師と交わしたが、その時にもう一つ別のお願いごともしていたのだ。
『ご両親の許可をきちんと得たら、検査だけしてあげるよ』
何かあった時のために、神坂医師の個人用の連絡先をこっそり教わっていた朱里は、正月明けから事あるごとに『誕生日が来たら、ドナーの適合検査を受けさせて下さい』と頼み込んでいたのだ。
とはいえ、通常では無理な話なのだが、大病院とはいえ個人病院なのと、病院長の息子という肩書に朱里は全てを賭けていた。
朱里の根気に負けたというのが正しいが、主治医の神坂は『保護者の同伴の下』という条件を出したのだ。
だからこうして、朱里は母親を連れて神坂病院の処置室で待機している。
五分ほど処置室で待っていると、『お待たせしました』と紺色のスクラブ着の上に白衣を纏った女医さんが現れた。
胸のネームタグには『ER科
神坂先生のご家族の人なのかな? と思ってじーっと見つめていると。
「あっ、名札見たらバレバレよね?」
クスクスっと愛らしく笑う先生は、『一応、“妻”させて貰ってます』と冗談交じりに教えてくれた。
超イケメンの神坂医師の奥様、すっごい美人さん!!
「
「はい、お願いします」
「娘がご迷惑をお掛けして申し訳ありません。どうぞ、宜しくお願いします」
隣りの椅子に座る母親が、深々とお辞儀をするから、私も倣ってお辞儀をした。
夕映先生は、ゆっくりはっきりとした口調で検査に必要な説明を丁寧にしてくれた。
看護師という職業柄、検査自体に不安はない母親でも、やはり緊張はするみたい。
時折、私の方に視線を向けて何度も小さく頷いていた。
採血はあっという間に終わり、ずっと悩んでいた期間の方が胸が苦しくて辛かったように思う。
検査って、こんなに呆気ないものなのかな。
「検査結果は、二週間ほどかかるかと思います」
「分かりました」
「先生、お忙しい中、ありがとうございました」
母親が何度も頭を下げるから、つられて私も何度もお辞儀をした。
社会に出る、大人になるということの一端を知った気がした。
私はもう子供じゃない。
成人になったのだから、親に頭を下げさせるような人間にならないようにしなくちゃ……そう思った瞬間だった。
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