彼女は悪魔だ
ナキヒコ
第1話 ミカンの愛
彼女は悪魔だ。
今日は公園を散歩している。
彼女はヒトに化け、その社会で生活している悪魔だ。
疲れた者たちへ、静かな午後を与える都会の公園。
そこにもこうして、悪魔は潜んでいるのだ。
「うひゃーー! 美味しいーー!」
若い男がミカンを頬張っていた。息子らしき幼児が、それを見上げる。
「パパぼくにも」
人間には、愛という概念がある。
おそらくそれは、生まれた瞬間に発生する、肉親という絆が発生源ではないかと彼女は考えている。
「……二人の時は、お父さんと呼べと言っているだろう。まあいい、くれてやる」
父親が忌々しげに息子へ食物を差し出す。
おそらくあの男は、家庭内で抑圧をされているのだろう。
彼女はせせら笑った。
ヒトはああして他人の目を気にし、勝手にストレスを貯める。
悪魔の世界はストレスフリーだ。
そして、家族はなく、愛もない。
「お食べ」
彼女が前を通りがかったベンチから声がする。
見ると、そこに座る老婆が、ミカンを差し出していた。女は笑顔だ。
悪魔はほくそ笑んだ。もはや彼女はヒトの社会に溶け込んだと言っていい。
汝の隣人を愛せ。
その隣人と、ヒトどもに思わせることができているのだ。
「わぁ! おいしそー! いただきますっ!」
悪魔はヒトの善意を食べるものだ。
ヒトは愚かだ。食物など、いくらでも貯めておけばいい。
他人に、しかも悪魔にそれを施すなど愚劣の極み。彼女は心の中で嘲り笑う。
「おいしかったっ!」
手の中に、またミカンがある。今食したのが幻かと思うほど、素早くそれは差し出されていた。
「もっとおたべ」
老婆の笑みは輝きを増している。
彼女はそれを急いで食べる。そして離れようと思った時、すでに二つのミカンが手のひらに乗っていた。
「いえ、あの……。もうワタシお腹いっぱ……」
その時悪魔は、老婆の目が笑っていないことに気付いた。
細められた目の奥から放たれる鋭い光が、こちらの顔を射ている。
「あなた、もしかして聖職者?」自然と声が低くなった。
「おや、よく分かったね。こう見えて悪魔狩りなども少々……昔の話さ。
……お前さん、尻尾を隠してやいないかい?」
「いただきますっ!」
二つの苦痛を平らげた悪魔の手には、五つの黄色い塊がすでに並んでいた。
悪魔が手から顔を上げる。
目の前のヒトの顔に張り付いた、笑みを模した歪みが深くなっていく。
老婆はゆっくりと立ち上がり、叫んだ。
「くばらないと!! おわらないんだよおぉぉぉぉぉ!!」
そして、背後にあったドラム缶を揺する。
何か、柔らかい物のぶつかり合う音が響いた。
あの中はミカンで満たされているようだ。
「……どうして、こんなことに?」
「孫がぁ!! 送ってくるんだ! 好きだろってぇ! 毎年毎年毎年毎年……!!」
絶叫の後、老婆は肩を落とし、ベンチに腰掛けた。
俯いた顔から、囁くような声が流れてくる。
「……お婆ちゃん、飽きちゃった」
老婆は、孫の無償の愛を手放すまいと、その消化に必死だ。
そしておそらく、孫は義務と化した無償の愛に、相手が音を上げるのを待っているのだ。
愛というリングの上で、強欲と怠惰が争い、無関係の悪魔が引き裂かれようとしている。
悪魔は叫んだ。
「ミカン! あるよ! みんなでたべよう! あげるっ!!」
大勢がミカンを食し、平穏な夕暮れが訪れる。
老婆は、「ありがとう」と悪魔に言い、素早く手を取る。
これは、握手だ。彼女は応じるしかない。
ヒトが呟いた。
「……親切な、悪魔ちゃん」
悪魔は慄然として、手を引っ込めた。
彼女の親指の付け根には、爪の食い込んだ跡が、血を滲ませている。
悪魔は痛みを感じにくい。それを確かめる握手だった。
やはり見破られていたのだ。
彼女が顔を上げると、老婆の姿はなかった。
背後から、
「私が五歳若くなくて、命拾いをしたね?」という囁きが、耳へ吹きかけられる。
悪魔は前に跳んだ。それで距離を取り振り返る。しかし、すでに誰もいない。
ただ、ミカンが一つ、落ちていた。
風にのってどこかから声が聞こえる。
「ヒトは、見ているぞ……」
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