第11章
────月曜になった。
私は嫌な音のするアラームで、睡眠薬でドロドロと溶けた脳みそを少しばかり起こし、燃えるゴミを時間ギリギリに出すことができた。
冬とはいえ、生ゴミを含む燃えるゴミはちゃんと出したい。
ただでさえする生活臭をこれ以上部屋に残してはいけない。
そんな思いだった。
一昨日の彼女からの電話以降、彼女からは連絡がない。
無事家に着いた、という報告は届いたが、それでもまだ不安である。
まだD社の目の届くところに彼女はいるのだろう。
それが、不憫で不穏で、許しがたかった。
一昨日の出来事があり、その翌日はバイトに力が入らなかった。
普段から入っているわけではないが、特段、脱力しきっていた。
脱力しきっていた私は、迷惑客に絡まれ、怒号と罵声を浴びせられた。とても不快で、不快で。
ただ、毅然とした態度と対応はしたつもりである。店として守るべきルールを徹底した、それだけである。
歳の割に怒号を飛ばす厄介な客────それを何事もなかったかのように捌いてしまう、私はそんな人間だ。
怒鳴られることはこの仕事をしている以上避けられないのだ。
これを何事もなかったかのように完遂してしまう。私の悪いところだ。
大事にならなかったことだけは及第点か。
その時の頭の中は、泣いたバナと手を繋いだバナとの思い出で埋め尽くされていた。
不純だが、頼られて嬉しかった。
ただ、私は確信を持った。
彼女と恋人になることは絶対にあり得ない、と。
一日限定のカップルごっこに過ぎないうえ、彼女から見て私は意識する異性ではない、と感じとることができた。
いつかボーイフレンドと別れた時にきっと私に傾倒してくれるかもしれない、と彼女の不幸せを願ってしまった私も、間違いなく私の中にいた。
そう思って、思い込んで、それでもどこか期待してしまった私は…
私の持っていた淡くて、不純な思いは行き場をなくし、この寒空に影を残し、溶けていった。
そう感じた帰り道だった。
その後にあった不審者に付けられているかもしれない、という通話は何よりも私の心をざわつかせた。
それでようやく、一つ思い出した。
"タガメ"に連絡を入れなければ、と。
私自身には何一つ関係のない、"メダカ"の活動に対し、なにかを覚えたわけではない。
彼女の尊厳と努力を踏み躙るようなことをしたD社に報復しなければならない。
そう思い込んでいた。
だが、具体的に何かをするというのはあの大男から説明を受けていない。
おそらく過激な、大々的なことをするのだろう。そう思った。
ただ、それがどの規模のものなのか、想像がつかない。
メディアが無視できないような出来事を起こす、そうあの大男は言っていたはずである。
それに少し躊躇した。
一介のフリーターである私にできることが何かあるのだろうか。
そう思いながら、眠たい目を擦って、伸びをして、上着に入れっぱなしだった電話番号が書かれているメモを取り出し、電話をした。
ワンコールですぐに連絡がついた。
「はい、田辺です」
あの大男の名前は田辺だったのか。
そう言えば名前を聞くのを忘れていたな、と思った。
「この間お世話になった者です」と、曖昧な自己紹介をしてしまった。だが、田辺はすぐにそれに気がついた。
「ああ、この間の!」
以前も聞いた、高い声だった。
「はい、先日はありがとうございました」
「とんでもないです、前回のお返事の電話…ということでお間違いないでしょうか」
「はい、その件について連絡させていただきました」
「悩まれたかと思います、簡単な決断ではなかったはずです。答えをお伺いしてもいいですか?」
「はい、"タガメ"に参加させていただきたく、お電話差し上げました」
やや沈黙があった。数日も空けてしまったから、田辺はノーという返事が来ると思っていたのだろう。
イエスと告げると、重々しく、こう答えた。
「覚悟が決まった、と仰るわけですね」
「はい、後輩が"メダカ"に脅かされる生活になってしまった。私はそれに強く憤りを感じました。何か報復を、と思いました」
また沈黙があった。
「そうですか、では、会わせたい人が今偶然宮城から来ていて、今晩会う予定があるのですが、そちらにお越しいただくことは可能ですか?」
スピード感のある展開に私は物怖じした。
だが、少し歩みを進めるには一度会って、改めて話を聞いてみたい。そう思った。
「はい、可能です。ですが、その話次第では、返答がノーに変わってしまうかもしれません」
「それでも結構です。では、20時にH市のM町にある、サンシャインビルの4階にある、コックテイルというお店にお越しいただけますか?」
「わかりました、20時に、コックテイルに向かえばいいのですね」
聞いたこともない店だった。
それも仕方ない。繁華街の中だ。
人を隠すなら人の中、そう思い了承した。
「ありがとうございます、では、そちらで改めてお話をしましょう」
「わかりました、よろしくお願いします」
その後も定型文が続き、電話が切れた。
まずはビルを探すところからだ、私はマップを開き、大体の目星をつけ、再び微睡の中に溶けていった。
二度寝から目覚め、布団から重たい体を持ち上げると、改めて部屋が散らばっているのがよくわかった。
一服すべく、換気扇の下へ向かった。
そこで、些細な変化に気がついた。
台所のハンドソープの横に、石鹸があったのだ。いつからあったのか。
私は石鹸は使っていない。買った覚えもない。
あまりに台所の風景の中に自然と溶け込んでいたので、驚きと恐怖が襲いかかってきた。
これはなんだ?なぜこんな物が?いつからあった?
恐る恐る手に取った。
いわゆる石鹸だ。
泡も立つし、ちゃんと石鹸の匂いがする。
誰かがこの部屋に忍び込み、これを置いたのか?
そう思うと不安と恐怖でいっぱいになった。
包丁を取り出し、割ってみる覚悟ができた。
包丁を握った手は震えていた。それでも、何かを確かめずにはいられなかった。
すると、中から小さなマイクのようなものが出てきた。
ゾッとした。
まさか"メダカ"の誰かが私の部屋に忍び込み、設置したのか?
いつからあったのか、バナとの話もまさか聞かれていたか?
これはいけない、と思い包丁の側面で力を入れて、割った。
時すでに遅し、かもしれないが今後の不安はなくなるだろう、そう思い、部屋を見渡した。他に気になるところは何もない。
ひとまずはこれでいいか、と思い、洗い物をして心を落ち着かせようとした。
20時までたっぷり時間がある。
私は質問すべき内容をメモにとり、20時が来るまで静かに待った。
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