「おーはーよーうー」

 ノックもなく、突如として扉がけたたましい音と共に開かれた。びくりと肩を揺らした実鷹をよそに、蒼雪は驚いた様子もなく「ノックくらいしろ」と文句を言っている。見れば寝癖もそのままに、パジャマ姿の侑里がそこに立っていた。

 寝起きらしい侑里が、あくびをひとつ噛み殺す。「いつもより早いな」と蒼雪は背筋を伸ばしたまま彼を見ていた。

「何だよ二人してさー。俺のけ者?」

「君が起きるのが遅いのが悪い」

 侑里は実鷹よりも早く寝付いたのに、起きるのは実鷹よりも遅かった。実鷹はいつもより早く目を覚ましたという事実はあるものの、それでも蒼雪の部屋にある壁掛け時計の時刻からして、やはり起きるのは『遅い』の部類だ。

「お前が早すぎるんだよ、毎日毎日」

「俺は昔から、起きるのはこの時間だ」

 文句を言いながら、侑里は実鷹の隣にどかりと腰を下ろした。片膝を立てて座った彼は、良いことを思い付いたと言わんばかりの顔をして、八重歯を見せてにやりと笑う。

「聞いてくれよ、サネ。こいつ毎朝この時間に起きて走って稽古してたって言うんだぜ。まったく、健康優良児かよ」

 早寝早起き。そもそもこの寮で夜更かしのしようはない。起床時間は各々に委ねられているとは言え、そう言っている侑里とて世間一般から見れば十分に『健康優良児』の範疇に納まるのだろう。娯楽などほとんどない、ここはそういう場所だ。

 蒼雪の顔を見れば、彼は涼しい顔で聞き流している。早起きして走り、稽古をして。何かしらの武道でもやっていたのかと一瞬思ったが、彼はそもそも「舞台に立てなくなった」という話をしていなかったか。であれば、稽古とはそちらの話か。

「君も部活の朝練はあるだろう」

「こんなに早くありませーん」

 月波見学園にも、部活はある。実鷹は所属していないが、知希は科学部に所属をしていたし、侑里は確か合気道部と剣道部を掛け持ちしているという話を聞いた。

「で、何の相談?」

「渡瀬知希のノートを見る話をしていた」

 知希のノートは、実鷹の手にある。部屋を荒らした犯人が狙っていたものがノートなのだと仮定すれば、知希の部屋が荒らされていたことにも納得がいく。

 けれどどうして、共有スペースのシャープペンシルはなくなっていたのだろう。目的は知希の部屋だったのだろうし、荒らした誰かが知希のシャープペンシルを持っていく理由はない。それのおかげで実鷹は違和感に気付いて知希の部屋の扉を開けたが、警告のような意味合いだったのだろうか。

 お前も探れば同じようになるぞ、と。

「それと、今日の放課後に事務室で芳治さんに、図書室で峰館さんに話を聞こうと」

 同意を求めるために蒼雪を見れば、彼は少しだけ何かを考えるような顔になった。

「渡瀬のノートを見るのは、話を聞いてからにするか。何も知らない顔で聞いて、内容に齟齬がないかを確認したい」

 おそらく蒼雪だけならば、先にノートを見ても素知らぬ顔ができただろう。けれど実鷹はその自信はない。先にノートを見ていて齟齬があれば、おそらく実鷹は顔に出る。

 この蒼雪の提案は、それを危惧したものだろう。何事もなければそれでいい、けれど齟齬があったのならという、その理由で。

「そう、だね」

「はー……お前ほんっと性格悪いよな」

 性格が悪いと言うか、手段を選ばないと言うか。以前旧校舎に侵入した時も思ったが、蒼雪は『途中式を埋める』ためならば、何でもするのだろう。

「三砂に言われたくはない」

「はいはい」

 思えば、最初に蒼雪に情報をもたらしていたのは侑里なのだ。こうなることを分かっていて情報を流していたのか、どうなのか。

「でも何も用事がないのに事務室と図書室行くのは微妙じゃねーの?」

「用事なら作る。事務室へは鍵を借りに、図書室には本を借りに、だ。もっとも、図書室へはこれを返しに行く用事があるが」

「どこの鍵借りるんだよ」

「旧校舎だ。もっとも、借りられないのは分かっている。ただ貸出票は見たい」

 事務室には鍵が置かれている。図書室には本がある。

 竹村竣が死んだ日、旧校舎の鍵を借りた人間はいなかった。最後に鍵を借りたのは笠寺であり、それもゴールデンウィークの頃だ。

 どうして竹村竣は、あの中で死んでいたのだろう。生徒は中に入れない、教職員とて鍵を借りなければ開けられない旧校舎の、階段の下で。

「図書室は、卒業アルバムと卒業文集、月波見学園報を借りる」

「そういや、置いてるんだったな」

「この『月蝕』も、図書室の奥で見付けた」

 図書室の蔵書量はなかなかのものだが、奥まで足を踏み入れることはほとんどない。実鷹も今回のことで初めて、今までの月波見学園男子部の歴史とも言えるものが図書室の奥にあるのだと知った。

「人皮の本のとこか?」

「そうだろうな。何もごとりと落ちてくる様子はなかったが」

 図書室の奥。そこの棚から、落ちるもの。

「何か不気味だよなあ、人皮の本って。しかもぎょろりと見るって目玉あるのかよ」

「そうして近寄らせないというのが、このむっつめの目的かもしれないな」

 その【むっつめ】は警告か。図書室の奥の本棚には近付くなと、そういうことを伝えているのか。けれど、何故そんな警告をしなければならないのだろうか。

 知希も図書室で色々と見付けていた。月波見学園の学園新聞を手掛かりにして、彼は何かを見付けている。それこそ芳治や峰館が卒業生であるという情報をもたらしたのも彼で、そして彼は彼らに話を聞きにいった。

「ああそれと。人皮装丁本というのは実在する。解剖した死体の皮膚で装丁した解剖結果だとか、殺人者の皮膚で装丁した裁判記録の写しだとか」

 詳細は必要なかったが、蒼雪が淡々と実際の人皮の本について話をする。それがどういうものなのか実鷹にはさっぱり分からないが、ただ脳裏にありありと浮かんだ人間の皮膚と同じ色の表紙をした本を想像してしまい、挙句そこに血管まで思い浮かべてしまったものだから、あまりのグロテスクさに口を覆いたくなった。

「うげえ」

 それは侑里も同じだったらしい。嫌そうに口をへの字に曲げている。

「……ちょっと、想像したくないな」

 人皮の本の想像が消えてくれない。そんなものがごとりと落ちてきたら、実鷹は早々にそこから逃げ出す自信がある。

 まさか【むっつめ】は、こうして気持ち悪がらせるようなものなのか。

「気味悪いついでに、ヒメ」

「ヒメと呼ぶな」

 いつもの遣り取りをしても、侑里はどこ吹く風だった。

「俺、例のみっつめだっけ、すっごい嫌な想像したんだけど。嫌がってるの踊らせるってさあ、なんかこう」

 ステージの上で、少女は踊る。踊れ踊れと、【猿】が囃し立てる。

 侑里の言う『嫌な想像』がまったく思い浮かばず、つい実鷹は首を傾げた。蒼雪もまた眉間に皺を寄せて、訳が分からないとでも言いたげな顔をしていた。彼にしては、何とも珍しい表情である。

「何の話だ?」

「あー……いいやお前は、そのままで。俺が汚れてるだけなんだろーな」

 蒼雪はもう一度侑里に「理解できない」の視線を向けて、それから実鷹に向き直った。そこについて追及をするつもりはないのだろう。

「それと、佐々木」

「何?」

 蒼雪は立ち上がり、本棚のところへ向かう。いくつかの本の背表紙を彼の指先が辿り、ある一冊の本のところでぴたりと止まった。

 するりと抜き出した本を手に、蒼雪が戻ってくる。

「これを。授業の合間にでも読むといい。これに、『七怪談の番人』という短編が収録されている」

 表紙には、『怪異蒐集癖』とある。作者の名前は――一色栄永だ。

「一色栄永……」

「そうだ」

 この学園の七不思議を、作った人物。一色栄永というのが本名かどうかはさておいて、何かしらの意図があって彼はそれを作ったのだ。そして今、その人物が書いた文庫本が実鷹の手の中にある。

「出版は、八年前。今日の夜にでも、君がどう思うかを聞かせてくれ」

 八年前に、『七怪談の番人』という短編を入れて出版されたもの。一色栄永は当然、【ななつめ】を知っていたはずだ。そうでなければ、それを小説に落とし込むことはできなかっただろう。

 そして何故また八年前に、月波見学園の部誌に掲載された『七怪談の事件ノート』を想起させるような短編をここに混ぜ込んだのだろうか。

「俺は調べたいことがあるから、先に行く。また放課後に」

「おー、気を付けろよー」

 蒼雪はそのまま、部屋を出ていった。真っ直ぐに伸びた背筋と、一分の隙もない指先の名残、張り詰めたような冷たい空気だけが室内に残り香のように漂って消えた。

 窓の外は、まだ雨だ。

「じゃ、俺らも準備して朝飯食って、行くか」

「そうだね。そうしよう」

 教室に行けば、嫌でも現実が待っている。それでも実鷹は、目を逸らすわけにはいかないのだ。兄のためにも、知希のためにも――それから、竹村竣や角柳の、ためにも。

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