あのノートを開いてみなければならない。どうしようもなく重く感じる表紙に手をかけてみれば、あっけなく表紙は開くのだろうか。それとも、実鷹の手は震えるのだろうか。

「姫烏頭は、今日はどうするんだ」

 授業は、ある。知希が死んだとて、授業は変わりない。角柳の時のように全校集会はあるのだろうが、だからといって授業がすべて取りやめになったりはしない。

 教室に行けばきっと、知希が死んだことをまた痛感するのだろう。だらりと揺れたブルーグレーのスラックスを思い出して、実鷹はからからに乾いた喉を潤そうとするように、ごくりと唾を呑み込んだ。

 吐きそうだ。それから、鼻の奥が痛い。自分のせいだと、今でも思う。けれど、だからこそ、実鷹はこの現実に向き合わなければならない。

「図書室に行く。調べたいことがあるからな」

「この前借りた部誌は?」

「あれは読み終えたから、返すついでだな。ああそうだ、あれについて君にひとつ、確認したいことがある」

 蒼雪はそう言って、机の上に置かれていた冊子を手に取った。「立ち話も難だな」と言われて、促されるまま実鷹は床に胡坐をかく。蒼雪はその正面で正座をしていた。すっと伸びた背筋のせいか、その正座は無理にしているようには見えない。

「君の知っている七不思議のむっつめは、【図書室に眠る人皮の本】か」

「そうだけど……」

 ただ実鷹が、その【むっつめ】に違和感を覚えていることも事実だった。【むっつめ】は本当にこれだったのだろうか、と。

「俺も、噂話として確認したのはそれだった」

 図書室の奥、ごとりと落ちてくるもの。その本はぎょろりと誰かを見る。

「それが、どうかしたのか?」

「見た方が早い」

 ぱらぱらと蒼雪は冊子を捲り、あるページで手を止めた。そこにあったのは一色栄永の『七怪談の事件ノート』だ。ただ蒼雪の手で影になって、その内容までは実鷹からはきちんと把握ができなかった。

「これだ」

 示されたそこには、『むっつめの怪談』とある。

「これが、むっつめ?」

「そうだ」

 そこにあったのは、【図書室に眠る人皮の本】ではなかった。怪談もまた、今あるものとは違っている。【七怪談の番人】が高らかに紡いだその内容は――。

「【開いてはいけない開かずの扉】」

 違和感の正体は、これだったのだろうか。封じていた記憶の蓋を開けて、底の底まで探ってみる。兄に聞いた【むっつめ】は、何だっただろう。

「妙だとは思っていた。【図書室に眠る人皮の本】の怪談だけ、文章がやけに下手だ」

「ごとりと落ちる、っていうやつ?」

 蒼雪が「そうだ」と頷いた。確かに、あれだけが妙ではある。そして、短い。

「確かに……下手、かも」

 あまり本を読まない実鷹にしてみれば、文章の上手い下手はいまいち分からない部分ではある。けれど確かに怪談を口にした時に、変な突っかかりがある。

「あ、そうか」

 そうしてようやく、記憶の底に辿り着いた。かつて兄に聞きたいとせがんだ、月波見学園男子部に伝わる七不思議。

「僕、ここに入学してから聞いたむっつめに、違和感があったんだ。お兄ちゃんから聞いたのと、何かが違う気がして」

 けれど実鷹は、その違和感を呑み込み続けた。七不思議を知りたいと思いながら、七不思議に背を向けていたからこそ、詳しく確かめるようなこともしなかった。

「そうだ。僕がお兄ちゃんから聞いたのは、開かずの扉の方だ」

 兄が知っていた【むっつめ】は、【開いてはいけない開かずの扉】だ。けれど今は、それが【図書室に眠る人皮の本】になっている。

「つまりこの九年の間で、このむっつめだけが変わっているということだな」

 何故、【むっつめ】は変化したのだろう。一色栄永が書き残した七怪談は七不思議となって、今でも月波見学園の中に漂っている。けれどその中にあって、【むっつめ】だけが別の形に変化した。

「月波見学園で開かずの扉と言えば……女子部へ繋がるあの扉か」

「でも、あの扉。向こう側に何があるか分かってるから……」

「そうだ。何があるか分かっているから、七不思議としては弱い。だから変化したのかもしれない――が」

 果たして、それはいつ変化したものだろう。

 旧校舎から女子部へ繋がる『御鈴廊下』は何のためのものか分かっている。そもそも、本来ならば『開かずの扉』ではなく、『開かずの間』とでもすべきところなのかもしれない。けれど月波見学園男子部においては、向こう側に何があるのか分からない場所はない。

「その原因が君の兄の失踪にあると考えるのは、こじつけがすぎるか?」

 九年前、兄は失踪した。けれど開かない扉の向こうへ兄が消えてしまったのなら、それこそ【むっつめ】はそのままであるべきだろう。

 けれども、【むっつめ】は変化している。場所もまた、『御鈴廊下』ではなく、『図書室』へと。

「でも、そもそも開かない理由が分かってるし」

「そうだな。鍵の紛失だったか」

 あの扉は二度と開かない。女子部へ続く廊下は開かない。かといってあの扉は、開けてはならないものではない。そこにあるのは、ただの廊下だ。

「……鍵の紛失がいつなのか、調べる必要がある。それから、何故図書室なのか」

 鍵はないのだと、あの扉は決して開くことがないのだと、それだけは噂の中にある。けれどそれがいつからだとか、そういう詳細は確かにない。

「今日の放課後、事務室と図書室へ行く。君はどうする」

「僕も付き合うよ。あと、それなら芳治さんと峰館さんに話を聞いてみると良いのかも。トモが言ってたんだ、二人とも月波見の卒業生だって」

「そうか」

 知希は彼らに、何を聞いたのだろう。芳治に、峰館に、そして井場に。彼らは知希に何を語ったのだろうか。そして何が、知希を【ななつめ】に導いたのか。

「あの、さ」

 その答えはきっと、あのノートの中にある。何でもかんでも書き残しておく、ある意味では知希の悪癖が詰まったメモ用のノートが、きっと彼の足跡を教えてくれる。

 だから実鷹は、あのノートを開かなければならない。その表紙がどれだけ重いものだとしても、表紙を『開かずの扉』のようにしておけない。

「トモのノートが、あるんだけど。姫烏頭も、見てくれないか」

 一人で見ることは気が引けて、蒼雪の顔を見た。彼はいつものように真っ直ぐ実鷹を見ていて、探るような視線も相変わらずだ。

「構わないが」

「助かる」

 蒼雪は、知希のノートの内容に何を思うのだろう。考えたところで、実鷹もまたその内容を知っているわけではない。開いてみなければ、何も分からない。

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