※  ※  ※


 侑里に「角柳先輩のところへ行くらしいが、どうする」と聞かれたのは、それから数日後のこと。翌週の木曜日になってからのことだった。

 彼らはどうやら、本当に角柳に都合をつけて貰ったらしい。曰く「食堂で会うまで数日粘った」ということだが、やはり彼らは滅茶苦茶だ。侑里が破天荒であることは前々から薄っすらと思っていたことではあるが、蒼雪もそれを止めたりしない。むしろ彼の場合は真顔で侑里に「そうするか」と言っていたのだから、より一層質が悪いだろう。

「行くらしいって……ユーリは?」

「俺、今日は部活あるし。別にサネが行かなくてもヒメは行くだろうけど、気になるなら一緒に行ったらどうだ?」

 侑里に言われて、一瞬実鷹は言葉に詰まった。目の前の席の椅子を陣取って前後ろ逆に座った侑里は、背もたれに腕を乗せて八重歯を見せて笑っていた。

 蒼雪と二人というのが、どうにも気がすすまない。けれど、実鷹が行こうと行かなかろうと、きっと蒼雪は角柳に会うだろう。それくらいは侑里に言われずとも分かっている。

 今日も、窓の外は雨だ。いつまで降り続くのか、飽きることもなく空からは水が零れ続けて、いつか地上が呑まれるのではないかとすら思う。今日はざあざあと降る雨ではないが、それでもしとしとと雨は降り続けていた。

「……分かった、そうする」

 兄のことが、ずっとずっと引っかかっている。知希が言った通り、いつまでも立ち止まっていても何も変わらない。苦手だとかそういうことを言い訳にして逃げ続けていれば、また同じことの繰り返しだ。

 それならば、やはり行かなければ。蒼雪は決して実鷹を攻撃しようとしているわけではない。それだけは分かっている。ただ誰に対しても、あの探るような視線を向けるだけだ。

「何だよ、二人で内緒話か?」

 侑里と額を突き合わせて喋っていたところへ、知希の声がかかった。侑里が背もたれのところに腕を乗せたまま、顔だけで知希の方を見る。

「何だ、トモも仲間に入りたいのか? 七不思議を探る会」

「不穏な名前、付けないでよ」

「なんかあった方が面白いじゃん、こういうのは。少年探偵団じゃないけどさ」

 それはそれでどうなのだろう。そう思っている実鷹をよそに、がたがたと音を立てて知希が隣の席から椅子を引っ張ってきた。

 教室の中は、もうほとんど誰もいない。部活へ行ったか、寮へ戻ったか、そんなところだろう。勉強をするにしても、雑談をするにしても、寮でもできる。だから月波見学園男子部ではあまり放課後に教室に残っているということがない。

「何だっけ。アニメ?」

「江戸川乱歩だ、江戸川乱歩」

 侑里が口にした作家の名前を知ってはいるが、実鷹も読んだことはなかった。せめて少しくらいはそういうものに親しんでおくべきなのかもしれないが、難しい本になるとどうしても実鷹は数ページで眠くなる。なので実鷹がよく読む本は、いわゆる『児童文学』と呼ばれているものだ。

 江戸川乱歩も児童向けはあったはずがだ、残念ながら手を付けたことがない。侑里に聞けば、何か勧めてくれるだろうか。

「サネ。行くならさっさと三組行かないと、あいつ一人で行くぞ」

 助けを求めて知希を見れば、知希はからりと笑みを浮かべた。今日もまた、晴れた日の太陽のような明るくて眩しい笑顔だ。

「俺、ちょっと図書室行ってくるし。何か分かったら教えてくれよ。俺のも教えるから。それじゃ頼んだぞ!」

「えっ、何で、図書館?」

「ほら、七不思議いつからあるのか気になってさ。どっかに手掛かりないかなーと思って」

 ここで「付いてきてくれ」とは言えず、実鷹は「分かった」と口にした。せめて知希でもいてくれれば間が持たないということはなかっただろうが、これはもう腹を括るしかないだろう。

 取って食われるわけではない。それは分かっているのだが、どうにも取って食われそうというか、そんな考えが拭えないのだ。それはきっと、蒼雪のあの視線のせいだろう。彼の顔がもっと凡庸とか、視線がもっとやわらかいとか、そういう風であったのなら、実鷹もここまで躊躇はしないのだ。けれどあの怜悧な容貌にあの視線が乗っていると、相乗効果でより一層緊張が走る。

「ま、頑張れ。ヒメ、別に悪い奴ではないしさ」

「そこが判断できるほど、僕まだ関わってないよ……」

 蒼雪と関わったのは、まだ二回。それも、どちらも同じ日だ。たったそれだけで善いも悪いも判断はつかないのは当然だろう。

「でも、とりあえず行ってくる。一応、話は聞いてみたいし」

 ただ侑里がそう言うのなら、そこは信用したい。もちろん実鷹とて蒼雪が悪人だと思っているわけではないし、彼は彼なりに何か考えた上で行動しているのだろう。

 だから、鞄を手にして教室を出た。「行ってらっしゃーい」という侑里の軽い声と、「頑張れよ」という知希の声援なのかどうかも分からない声に背を押されて出た廊下は、今日も雨の湿ったにおいが充満していた。

 窓ガラスには、細い細い雨の筋。いつまでも空は泣いている。

 ぱたぱたと軽い足音を立てて、廊下を歩いた。もう人影はまばらで、いつもはざわめいている校舎の中がひっそりとしている。同じ造りの教室を通り過ぎて三組へ辿り付けば、教室の中で蒼雪は本を読んでいた。

「あ、あの」

「ん? 誰かに用事?」

 どう呼べばいいのかも分からず、直接声を張り上げることは憚られた。幸い三組の廊下に近い席に生徒がひとりいて、実鷹は彼に声をかける。

「姫烏頭君、呼んで欲しくて」

「あー……あいつ。いいよ、ちょっと待ってて」

 あまり気がすすまなそうな彼には申し訳ないが、実鷹も蒼雪を呼ぶのは気がすすまない。

「おーい、余所者! 呼ばれてるぞ!」

 彼は、蒼雪を名前で呼ばなかった。ただ『余所者』と告げた言葉を、蒼雪は気にした様子もなく受け止めている。ぱたりと本を閉じた蒼雪は、そのまま机の上に本を置いて実鷹のところまでやってきた。

 机の上の本にはブックカバーがかかっていて、タイトルが見えない。

「君か」

「ユーリから、角柳先輩のとこ行くって聞いたから」

「そうか。そうだな、頃合いか」

 蒼雪は「少し待て」と実鷹に告げて、また机のところに戻っていく。するりと手にした本をリュックサックに入れて、蒼雪はそれを持ち上げた。両方の肩にきっちりとかけられた肩紐は、どこも捩れたりしていない。

 クラスメイトに「さよなら」と告げるようなこともなく、蒼雪は教室を出てきた。寮でどうせ会うからという理由ではなく、おそらく関係性がひどく希薄なのだろう。

「寮の娯楽室を指定されたから、寮に戻るが。君、もう用事はないか」

「大丈夫。僕別に、部活も入ってないし」

「そうか」

 そのまま無言で、廊下を進み、階段を降り、玄関を抜ける。無言で二手に分かれて靴を履き替えて、また示し合わせるでもなく戻ってきて。寮へ向かう道すがらも、ずっと沈黙ばかりが落ちていた。

 差した雨傘の上で、雨粒が踊っている。ぱらりぱらりと少しだけ音を立てて、爆ぜては滑ってを繰り返す雨粒は、妙に楽しそうだ。

「あの、姫烏頭って」

「何だ」

 沈黙に耐え兼ねて、声をかけた。一応の返答はあったが、何を話すべきかを実鷹は迷ってしまう。世間話をするほどの親しさではない、けれど七不思議の話をするにも、どうにもそれは口が躊躇している。

「西山寺男子、に、いたんだよね?」

 だから、侑里から聞いた話をそのまま告げた。

「……三砂から聞いたか」

「うん」

 会話をしても、雨傘の下の静けさは壊れない。きっと実鷹がこれ以上何も言わなければ、会話はここで終わりになるのだろう。

 西山寺男子から、月波見学園男子部へ。これが共学校からというのならば男子校に入り直したという理由は想像がつく。けれどどちらも男子校で、しかもレベルを下げて転入するという理由が分からない。

 けれどこれは、聞いてみても良いものなのか。

「何で、月波見に?」

「別に無言でも俺は気にしない。無理に話をする必要はないが」

 まるで実鷹の考えを見透かしたようなことを言って、蒼雪はしばし沈黙していた。何か言わなければと焦る実鷹をよそに、雨粒は爆ぜて、踊っている。

 傘の上で、踊り続ける。誰も何も、そうしろとは言っていないのに。【みっつめ】の少女の亡霊は、望まないまま踊らされているのに。

「――舞台に立てなくなったから」

「舞台?」

 静かな返答に、つい聞き返してしまった。

「能舞台」

 それきり、本当に沈黙が落ちた。「無理に話をしなくて良い」と言った蒼雪の真意は分からないが、ここで無理に会話を続ける必要もないのは事実だ。

 だから結局、実鷹は寮に戻って鞄を置いて、そして約束の娯楽室へ行くまで。それまで一切蒼雪と会話をすることはなかった。

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