マリア、『修辞学』の授業を受けて「奇跡」を起こす
ラウィニアに到着した翌日。マリアはカトゥルスの宅の居間でテーブルに座り、教材を渡されて勉強の真っ最中であった。しかしラウィニア市内のピリピリした空気を感じ、注意を削がれてしまっていた。
「カトゥルス先生。外が騒がしいので窓を閉めてほしいんですが」
「気にしなくてよろしい」
「でも……」
「でも、じゃない。君が今取り組むべきは、今は亡き東の民主制国家で人々のために弁舌を振るった政治家ポレマルコスの遺した議会弁論を一読し、それを政治について知らない子供達に向けの文章に書き直すことだ。さあ、目の前の教材と真剣に向き合いなさい」
マリアは『修辞学』の授業を受けていた。『修辞学』とは人前で話す技術に関する学問であり、今の彼女はその初歩の勉強――教育者にとって欠かせない「分かりやすい文章」を書く訓練に励んでいた。
そんなこと言われても、政治家の文章をどうやって小さな子供達にも分かるように書き直せばいいの? 内容が難し過ぎて書き換えなんて……。
卓上に置かれた一枚の羊皮紙に記されている、古の政治家が大勢の論敵を相手に自らの主張――祖国の民のために減税を訴える弁論の原稿を相手に、マリアは格闘する。
『諸君。これは極めて由々しき事態である。』
『今現在、我が国は貧困に苦しめられている。』
『その理由は唯一つ。国が市民諸君に課している税にある。』
『政府は市民諸君から既に十分な、いや、麦粒一つまで取り尽くすような勢いで税を徴収して国庫に納めているのを、私だけでなく市民諸君の誰もが承知していることと思う。』
『以前、私は我が国の財務を担う政府高官らに面会し、どうか民のために税率を下げるよう
『その結果は……いや、それは市民諸君がよく分かっているはずであろうから、ここでは言うまい。』
教材の冒頭を抜粋し、一文づつに区切れば以上のようになる。
最初の文で聞き手の大衆に今の自分達が置かれた状況が危機的なものであることを伝え、次の文で「貧困」という言葉を用いることで解決しなければならない課題を明示する。この時に「貧困に苦しめられている市民がいる」ではなく「我が国は貧困に苦しめられている」と表現することで、この課題が国全体の問題だと強調しているところに修辞技法の一つである『誇張法』が使われている。
その次の二つの文では、先の文で貧困の理由を「唯一つ」と前置きすることで、それ以外の事象を貧困の要因から除外し、後の文では「麦粒一つまで取り尽くす」といった表現をすることで、政府による税の徴収が過酷なものである印象を聞き手の心中に植え付けようとしている。
そして最後の二つの文においては、語り手が貧困という課題を座視していた訳ではなく政府の要人と会談する機会を設けてその解決を訴えたことを明示し、しかし最後の一文では、その結果を言葉にはしないで
最後の一文は別に「本当に口に出せない」のではない。「私が言わなくても、会談が不首尾に終わったことはお分かりでしょう?」と言外に伝える『仄めかし』という修辞技法である。こうすることで聞き手は政府の無能ぶりを、そして強欲ぶりを話者に掻き立てられ、話者の主張に共感するように誘導するのだ。
以上、冒頭を取り上げるだけでも文中に多彩な文章技法が活用されているのが分かる。そして最後にこれが最も肝心なことなのだが、話者(原稿の製作者)は聞き手の属性――年齢や職業などを考慮に入れつつ弁論の原稿を仕上げている。これは修辞学の基本である「聞き手の耳を苦しめる単語や文体」の使用、即ち聞き馴染みのない単語や主語と述語が入り組んだ文意の掴みにくい文章を避ける工夫が凝らされている証拠なのである。
この聞き手の属性に応じた文章作成こそが『修辞学』においては最も難しい技術であり、一朝一夕で見につくものではなく何度も訓練を積み重ねて身につけるものであった。そしてその『修辞学』で最も会得し難い技術について、カトゥルスはマリアに課題として、それも「政治を知らない子供向け」に書き直す条件で提示したのである。
養父マリウスから一通り勉学は教えられてきたマリアといえど、このような課題をこなしたことはない。ましてや彼女は引きこもっていたので聞き手の属性を具体的に想定して文の書き換えは望めないはずだが……。カトゥルスには何か意図があるのだろうか。
難し過ぎたか。目は動かしているが筆は動きそうにない。
マリアを観察しつつ、カトゥルスは思っていた。多分、彼女は一文すら子供向けには書き直せないであろうと。
「ギプアップするかね」
「いえ、もうちょっとだけ時間をください。お願いします」
「そうか。なら待とう。ただ、ずっと待ってはやれないよ。既に一時間、君は教材と睨み合っているうえ、二階で君の連れを――グナエウスさんと君の頭に居座っていた雄鶏を待たせているのだから。君が授業に集中するために彼らは部屋に閉じ込められているのだ。早く終わらせないといけないよ」
「はい、分かってます」
視線を卓上に置かれた教材から反らさずにマリアが答える。そして考えること数分。マリアは閃いた。
全文は無理でも、せめてこの冒頭の文だけなら子供達に分かるように書き換えられるかも。例えば冒頭の最初の一文なら、子供達の名前にして呼びかける形にすれば……。
マリアは筆を手に持つと、教材の隣にある羊皮紙に幼児向けに書き換えた文を一気に書き記し始める。
「貧困」は「欲しい物が買えないくらいにお金がない」に、「税」は「お小遣い」に例えてみるのがいいかも。
筆が乗るにつれて、マリアの思考も早くなる。書き換えの文も次々に浮かんできては、羊皮紙に書き込まれていく。
「麦粒一つ」のところは一番価値の低い貨幣の「銅貨一枚」にして、あとは最後の二つの文を小さな子供達にも分かるような場面に作り変えて……できた!
「お、できたかね。では、見せてみなさい」
「はい。冒頭だけですが書きあげました。お願いします。先生!」
マリアの答案を、カトゥルスが細かくチェックする。視線を左から右に、文の右端まで辿ると次の行に移って、また視線を左から右に……といった作業を続けているうちにカトゥルスの顔に笑みが浮かんでくるのを、マリアは認めた。
え? もしかして、笑われるぐらいに変な文になっちゃってた……?
「あの、先生。どこか変なところがありましたか」
「いや、そっくりだと思ってね」
「?」
意味が分からないでいるマリアをよそに、カトゥルスはマリアの答案を、全文中の冒頭のみではあったが朗読した。教育者には欠かすことのできない身振り手振りを交えた演技に合わせて。
『ルキウス君にファウストゥス君、それにプブリウス君。みんなに聞いてほしいことがあるんだ。』
『今の僕達には、欲しいおもちゃを買うお金がない。』
『それはね、パパのお財布を預かっているママに原因があると思うんだ。』
『僕達のママが、パパたちから銅貨一枚さえ残らず取り上げてタンスにしまっているのを、僕だけじゃなくて君達も知ってるとは思うんだ。』
『そこで僕は自分のママと君達のママを相手に言ってやったんだ。お小遣いが欲しいから、どうかパパからお金をたくさん取り上げないで、って。』
『そうしたら……。いや、言えないな。君達に話したら、たんこぶがもっと増えちゃうから。』
「――これが君の書いた冒頭文の書き換えだね。では、こちらを見てくれないか」
そう言うと、カトゥルスは居間の戸棚の引き出しから一枚の色褪せた羊皮紙を取りだし、マリアに見せてやる。そこにはマリアが先ほど取り組んだのと同じ教材を参考に、それをマリアと同じく子供向けに書き直した文章が、ただしマリアのとは違い全文が記されていた。
「冒頭を読んでみなさい」
カトゥルスの指示に従い、マリアは冒頭部分に目を通す。すると……。
「私のと同じだ! 一字一句、使ってる単語も表現の仕方も同じ! でもなんで?」
「さあ。だが、君と同じようにおそらく五歳児程度のお子さんを聞き手に設定して書かれた文章なのは間違いない。
『税』を『母が父から徴収するお金』に、『貧困』を『自分が欲しいおもちゃが買えないこと』に、『麦粒一つまで取り尽くすような勢いで税を徴収して国庫に納めている』を『母が父から銅貨一枚さえ残らず取り上げてタンスにしまっている』に変えているところまで、その答案を書いた者は君とそっくり同じに書き換えている。
正直、驚いたよ。君はテレンティアの答案を見たはずがないのに、こうして君の書いた冒頭文の書き換えを見た瞬間、君と彼女に『親子』を感じてしまったものでね。それで思わず笑みがこぼれてしまったのだ」
カトゥルスの言葉を聞いたマリアが手渡された答案の解答者名を確認する。そこには自分の養母の名が、流麗な筆致で
「これ、ママの字だ……」
単なる偶然には違いなかったが、それはあまりにも奇跡的な解答の一致であった。マリアはそこに運命的な何かを感じ、元気を得て、空の向こうにいる養母の魂に心中で呼びかける。
ママ、今は冒頭のところしかママのようには書けないけれど、これから頑張り続けて、いつかはママと同じレベルまで、ううん、その先まで突き進んで、絶対に先生になってみせる! だから、お空の上で見ててね。
「マリアさん。今日の授業は二階に待たせている人がいるからここまでとするが、いずれ一人で来た時にはもっと長くあなたに教育者の
カトゥルスの質問に、マリアは即答した。
「私、これからも頑張ります! だから、カトゥルス先生。どうか未熟な私にご指導ご
やる気だけは十分。それ以外は半人前以下。そんなマリアの意思表明にカトゥルスは一言、「私は手加減しないから覚悟しておくのだよ」と答えるのだった。
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